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本質直観の残酷な神が支配する|青山二郎「目の哲学/利休伝ノート」

2016年10月30日 - Criticism Kritique, Kritique, Literature Kritique
本質直観の残酷な神が支配する|青山二郎「目の哲学/利休伝ノート」

昔、青山二郎という天才がいたらしい。昔は本当に働かない天才がいて、吉田健一さんは乞食王子と自分のことをエッセイで名付けていたが英国の貴族の影響からカントリーオウルドマンとしての人生を歩もうとする人間が多くいたらしい。現代でそんなことをしている人はほとんどいない。ニートやらパラサイトシングルやら言われてしまう。金銭があるから働かないなんて、理屈も道理も通りはしないのである。

青山二郎は自分自身のことを日本の文化を生きている、と言っていたらしい。文章を読むと本質直観が優れていたため、何か大きな技術を体得して大きなものになりたい、という欲望より、今ある日本の文化や美を十全と体験するためにはどの様にあればよいか、が大きいらしい。もともと骨董など日本の美に対する認識が高い人間であるため、本人はプロの芸術家になりたいというものがほとんどなかった人らしい。

青山二郎の学問を共有した生徒に白洲正子などがいて彼らの世界は明らかに天皇や当時の政治の中枢を担っていた人間たちの物語であり、時代の証言者としてとても価値のあるものだ。

文化とは後の人間が体系化して成り立たせる世界のことである。昨日は確かハロウィンだった。テレビで渋谷近辺では仮装をした人々が道路をずらずら歩いて過ごしていたらしい。都会の明るい夜の道を紛争して歩く人々の姿は私の住むところでは見ることもできずに、テレビを通してみて驚いた。

もともとハロウィンとは西洋からアメリカに渡った文化であり、日本ではあまり見られない。少なくとも田舎の生活では見ることもない。仮装という現象は日本ではまだ根付いていず、服装に対する規則もかなり厳しく、日本人には独自の服装をもって過ごすことはあまり好まれないのかもしれない。何故なら服装とは礼節であり、日本は礼節を重んじる文化があるからだ。

文化とはレイシズムによって成り立つが、日本は建国にあたり特に目標というものを持たなかった。そのため、どのような文化でさえ日本には入ってくるようになった。かつての引きこもりのコンプレックスがあらゆるほかの国の文化を飲み込むシステムを想像してしまったようだ。そしてそれを肯定するお題目として金銭になる、というのが大前提となってしまった。

器用である日本人は昔からあらゆる文化を自分のものにしてきた。言葉は漢語からひらがなを創造した。日本的な美というものは海外から輸入した文化を作り変えることにより、より礼節な世界、つまり目で見て美しい世界を想像することだったのではないだろうか。そしてそれはアニミズムが多分に作用しているように思われる。

言語化された技術を多くの人が見て、美しさを感得する。文化とはレイシズムであり、多くの人がその文化を知ることにより、それが文化となりうる。日本に個人主義が成り立たなかったのは、個人として生きるには日本人は見た目を気にしすぎたからではないだろうか。美と個とはもしかしたら非常に成り立ちずらいのかもしれない。

青山二郎の文章を読んでいると本質直観という考え方が頭に入ってくる。殆ど文章を残さなかった天才の頭の中、というか目の形がとても面白い。作家が目について書いた物というと吉行淳之介「目玉」福田和也「日本人の目玉」ジョルジュ・バタイユ「眼球譚」谷崎潤一郎「春琴抄」アンドレ・ジッド「田園交響曲」。昔は目が見えない人は文章を読むのは苦労したのかもしれない。文学とはもともと口承芸能であり、その文化がよりスタイリッシュな形で成り立つようになったのが文学である。

最近ボブ・ディランがノーベル賞を受賞して、音楽家が受賞するのは面白いと思ったが、歌が文芸として世界最高峰の賞を受賞するとは時代の変化を感じる。なんとなく。じゃまた。

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