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主のいる会話|日夏耿之介「風雪の中の対話」

2016年11月14日 - Essay Kritique, Kritique, Literature Kritique
主のいる会話|日夏耿之介「風雪の中の対話」

日夏耿之介と言えばポーやワイルドの詩の翻訳で知られている。私が日夏耿之介を知ったのは澁澤龍彦の本を読んでいた時だ。日夏さんのゴシックな翻訳とこだわりの強さ、そして趣味の良さに裏付けされた言葉選びがとても新鮮だったらしい。私は古語に対し、大して趣味もなく、日夏耿之介という高雅な趣味人を遠くから眺めていた、というか本を手にすることさえなかった。
そんな古語嫌いだった私もいつの間にか図書館に行き、日夏耿之介の本を手にしているのだから奇妙な感じがする。今時日夏耿之介の本を読む人がいるのか。と自らに問えば、「ここにいる、私だ。」と私は答える。もちろん脳内で。

で、「風説の中の対話」についてであるが、読んでみて、日夏さんは非常に趣味がいい人だと感じた。世間に対しての目があくまで常識の上で成り立っている。たまに言葉の関数を使い、なんだかよくわからない纏めを対話中の登場人物がし始めるが、そんな纏めが心地よいのは主のおかげではないだろうか。

風雪のなかで道に迷うというのはしんどいことだ。もちろん風も雪もしのいで前に進めればよいが、体力が落ちて非常にしんどい時がある。立ち止まれば余計体力を奪われるが、迷って動いても大層大変なことになる。道しるべがあっても心が疲弊すれば誰かの傘で雨宿りをしたくなるものだ。
そんな風雪の中で雨宿りをさせてくれるのがこの一冊である。

主のいる屋敷の中で、まるで千年先にも同じように対話している自分たちを想像したり、悲劇が多すぎると落胆したり、歴史のうさん臭さに霹靂したりと発見にいとまがない。主の傘の下で風雪が失せたような気がするのはやはり気のせいで、この傘を出れば、いづれ孤独にみずからの足で前に進まねばならぬ。孤独とは疲弊した魂の所産である。
常道が欠如した一般論には興味を持てないのは自らの幻想に目を向けるのはしんどいからだろう。疲れたら立ち止まらずに誰か心の中の主と会話するのをお奨めする。

もし、あなたが孤独を発明できないとしたならば、家の中であなたを許してくれる人を探しなさい。アメン。じゃまた。

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