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歴史の仮構の彼方|花田清輝「室町小説集」

2016年12月3日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
歴史の仮構の彼方|花田清輝「室町小説集」

花田清輝といえば、日本を代表するアヴァンギャルド思想家である。日本のポストモダニストの先駆けともいえる。花田清輝が活躍したのはだいたい1940年から1970年の間、日本の元号でいえば昭和15年から昭和45年くらいである。その後日本に高橋源一郎や島田雅彦、小林恭二などのポストモダン小説家が登場する。

時代の変換のサイクルを見るとき、私は10年ごとに時代を引っ張る力学が働いているように感じる。80年代にポストモダン小説による時代のから騒ぎを描く小説が生まれた後、その倫理性と説く作家と小説家が登場した。町田康や奥泉光などがその傾向がみられる。
その後、00年代に新たに物語に対する自意識を持ったポストモダン作家や小説が生まれた。阿部和重の小説群は小説自体が自意識を持つという構造を持っている。この傾向を強く提示したのが平野啓一郎や中原昌也、舞城王太郎などである。
10年代となり、作家の自意識さえも作品として提示しながらさらに小説も自意識を持つ作品があらわれる。西村賢太のもつアヴァンギャルド思想はある種の事件だったのだろう。

このように見ていくと時代を代表する小説には20年サイクルがみられる。80年代に現れた小説のスタイルを90年代の小説がより問題を解決しようとする。00年代に生まれた小説を10年代の小説が説明する。時代を先鋭的に見るのが偶数年であり、そこの近代性を見ようとするのが奇数年である。もしこの世に奇遇というものがあるとするならば、と考えると永遠に小説を書くことは終わらないと思われる。

と、いうことは小説は一つの思想ではあるがあくまで作家自身の経験から生まれた、世界に対する説明を周囲に納得のいく形で提示することである、というのは当たり前の話で、何故なら多くの人は自分自身の経験や歴史、家庭、社会、日本の歴史、世界の歴史から物事を考えるからだ。

かなり前置きが長くなってしまったが、そこで花田清輝「室町小説集」である。
この小説集が生まれたのは1973年である。この小説には谷崎潤一郎の「吉野葛」をにした「『吉野葛』注」をはじめに5つの作品からなっている。どれも室町時代を舞台にした歴史小説風である、が実際この小説の奇妙なところは歴史小説ではないということだ。歴史小説は普通、実際に起こったことから成り立っている。なので、人間の心理典型を描くことが多いが、あくまで事実をもとにした話である。

しかし、この小説集は花田清輝が収集した歴史背景をもとにそれらの記述の齟齬を見つけ、そこから新しい物語を描こうとしている。もっとはっきり書くと実際にはおこらなかった歴史を小説として描いているのだ。
これは奇妙なことである。何故か。普通、人は実際にあった事柄から世界を理解する。起こってしまったことを解決する手段として、社会学者や歴史学者、とくに心理学者や精神分析は新たな物語よりも、かつてあった物語の典型を現代の人間に当てはめて考える傾向がある。学問自体が人間の典型をどのように理解するればいいか、と考える手段なので、時代の経験がいかに正しいかということを、次の時代に提示するかに学者たちは奔走しているのだ。

この世に正史というものがあり、また偽史というものもある。一つの歴史を描くことが、他の歴史を説明し、その説明が高度の批評となり、物語の強度を高める。ポストモダンとは近代を説明するためにいかに時代に対抗するか、ということを考えるために生まれた思想であり、手段である。

もし、この世にポストモダン以前の真のアヴァンギャルド思想があるとすれば、それは自らはほとんど何もしないという形で行う世界に対するレジスタンスかも知れない。そして何もしないということは危険なことである。日本を揺さぶる思想は現代においては経験といわれるが、なぜかというと経験とは自らの過ちを正しさに変換する装置であり、より高度な経験、つまり良い経験と悪い経験とに分けると、良い経験とは良い行為をして褒められる。人を助けて、その人の褒められる、がいわゆる良い経験であり、万引きをして、親に怒られるのが悪い経験である。しかし、誰がそれをよい経験、悪い経験ととらえるのかといえば、それ自体が社会である。歴史である。その人間の作った社会傾向である。物事を細分化し、言語化することが大事だとすれば、自らが正しいを考えること自体が思考の経験であり、思考自体が齟齬をきたしているのだ。

つまり小説、物語をとらえ直すこと自体が、この世界に対するレジスタンスを形づけるものである。そして、そのとらえ直し方を、自らの考え自体、ユーモアをもって物語ろうとする意志こそが真のレジスタンスであり真のアヴァンギャルドであろう。しかし、この行為は二つの世界を殺すことにつながる。

ならば人間は生きるためには少なくとも二つ以上の物語を持つことが必要であると思う。かつて近代文学は一つの人生に対してオルタネイティブにもう一つの物語を用意した。しかしそれはあくまで仮構の物語であり、フィクションとしてしかとらえられない。しかし、花田清輝のアバンギャルド思想の根本には世界、つまり人生が二つあり、その中心人物となる人間はどちらの世界にも属しないという自意識を持っている。その結果ポストモダン思想が生まれたのだが、花田清輝の倫理性は自らを三年寝太郎としてとらえることで成り立っている。

ダンディズムがナンセンスなものでしかありえなくなってしまった現代において、この世界観は貴重である。いつの時代にも本物はあり、残るということこそが大事であり、真の歴史的を見据える行為である。ここまで自分で書いていて驚いたのは、この話はもしかしたら現代人の故郷の喪失の認識まで伸びるかも、と思ったからだ。じゃまた。

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