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文学の可能性|アンネ・フランク「アンネの日記」

2016年12月27日 - Diary Kritique, Kritique, Literature Kritique
文学の可能性|アンネ・フランク「アンネの日記」

教育勅語により、多くの人が偉人たちの伝記を読むようになった。そして学校教育においても、日々の日記を書くことなどをして、新しい人材を作ることを検討しているらしい、というのは嘘で、現在の学校教育では何故か第二次世界大戦を教えない。幼少のころ、教師に「何故、第二次世界大戦まで授業がないのか。」と尋ねたところ、「試験に出ないから。」という理由だった。理由になっていないのは明確である。教科書には一応第二次世界大戦まで書いてある。だったら授業をもそのように行ってほしい。子供心ながら、大人の怠慢を見せつけられたような気がして、非常に気分が悪かった。そんな私も大きくなり、日々の雑務に追われることになり、家の中の掃除もままならないという有様である。

夏休みには本を読め、と学校が読書感想文を書くことを要求してきた時があり、その中には伝記も含まれており、「アンネの日記」や「ヘレン・ケラー」の伝記などが含まれていた。私はコナン・ドイルの「ヴァスカビル家の犬」を購入したが読まずに2カ月間は過ぎていった記憶がある。その本は最近なって読んだ。以外にあっけない話だった。

そんな私も大人になり、「アンネの日記」を読むようになった。最近は戦争に興味があり、チェスタトン「新ナポレオン奇譚」佐藤亜紀「ミノタウロス」を読んだりしていた。どちらもフィクションじゃん。しかし、当時14歳だったアンネ・フランクが戦争の中で作家になりたいという希望を失わずに日記という作品を描き続けてきたのは、はっきり言って感動である。ノンフィクションである。涙が流れそうになる。嘘だけど。

そんな嘘を何故私はつくのか、ということを説明すると、実際「アンネの日記」を読んで涙は出ない。実際にあった事件や事実が描かれいるが、日記の終わりはいつも「じゃあまた」だからだ。もしすべての日記を読み終わったとき私の心はどのような形をとるだろうか。それは涙だろうか。しかし、私は読んでいるうちに何とも知れない感動を感じていた。

この本アンネ・フランクという一人の少女の日記である。その本をのぞき見しているのだ。思春期の少女のある意味赤裸々な告白を読んでいるということだ。確かに第二次世界大戦時に戦争を回避し続ける生活をしている人間の魂の記録と、それでも人間としての尊厳を失わずに作家としての矜持を失わずに闘争をしていた姿がある。しかし、これは私たちが読むべき本なのだろうか。この本をポルノグラフィとしか読めないのはこれが過去の話だからか。

かつて地下出版された文芸作品にジョルジュ・バタイユの「眼球譚」等があるが、アンネ・フランクは作家としてこの日記を多くの人に読んでほしかったらしい。しかしその夢はアンネ・フランクの死により生きている間はかなわなかった。現代の祈りの書ともいえるが、まるでセイントのようにアンネ・フランクを扱うのはどうも気がかりだ。一人の感情を持った短い一生を過ごした人間の姿を感じるだけで十分じゃないか。アンネ・フランクの意志とは別の部分で出版されてしまった作品にどうこう言うのは気が引ける。

この気持ちの気がかりさこそを大事にするのが今後のことを占う上で重要なことだと思う。当たるも当たらぬはおてんとうさまにもわかるまい。じゃまた。といつも書いていたがこの「アンネの日記」を読んでみたら、アンネ・フランクも日記の最後に「じゃあまた。」と書いていた。私は「とりあえず続く」ぐらいの意味合いで使っている。じゃまた。

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