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一つの終わりと二つの始まり|坂口尚「石の花」

2017年1月5日 - Comic Kritique, Kritique
一つの終わりと二つの始まり|坂口尚「石の花」

坂口尚のコミック「石の花」を読んだ。非常に面白い作品だった。滅茶苦茶感動した。今まで読まないで人生損した。人生を損するなどと悲惨なことを思ってしまうほど面白かったのだった。韃靼人。私は韃靼人ではない。

韃靼人ではなくても読んだ本の感想は書く。で、内容についてですが、この漫画は第二次世界大戦当時のナチスドイツのユーゴスラビアに対する侵攻を舞台に人間の本質を見つめる人間の姿を描いた作品だ。と、書くと何となくそのような話のような気がする。しかし読んでみるといろいろと思うこともあるし、物語自体にも不満がある。所詮読者の我がままである。素晴らしい作品にさえケチをつけようとする読者の屑である。

しかし、物語自体にはより強烈なメッセージが欲しい。坂口尚はこの物語の最後にファンタジーの要素を詰め込んでいるところが、物語の強度を弱くしているような気がする。疑問符がたくさん沸いていしまうのだ。そして最後の部分をファンタジーとして見る私自身の目玉こそが私自身の本質直観と繋がるのだろう。

この物語の肝は最後の主人公の表情にあると思う。相手とディベートをしながら本音を聞いたときに「それが本音だったんですね…またしても現実の方を飲み込むんですね。あなたは心から平和を望んじゃいないんだ!!」というセリフがあるがこの時の主人公の表情が、大人の表情なのである。長い年月を経て少年から大人になった主人公の顔とセリフの説得力が、ファンタジーを内面に持って生きる姿とあいまい、その在り方に大きく不安を感じるのである。

現実は常に過酷である。主人公がたまたまイノセントな部分を持ったまま生き残った兵士であるがゆえに、この物語の終わり方は不自然ではない。何故なら、真に闘争するものは常に物語の内側にいて、物語の外側にはいないからだ。どのような未来を描けるのならば、新しい未来を想像する力を手にすることこそが生への意志なのではないか。

かつてニーチェは「力への意志」という哲学概念を抱いたが、私はこれをポエムという形で読んだ。そして、その力以前に、自ら創造する力、つまり自らの根源性をエネルギーとする意志こそが大事なのだと思う。ニーチェ以後、バタイユがより人間の行動、根源性をエロスとしてとらえ直しているが、それ以前にエネルギーこそ意志につながる物語であると、「石の花」の物語は問いかけているように感じる。

人それぞれ思うところが必ずあると思う作品なので、是非とも多くの人に読んでもらいたい。全くためになるけれども、別に勉強目的じゃ無く読んでもいいと思う。最近私はドーナツを好んで食べていて、最近もミスタードーナツでドーナツを食べた。そのとき思ったのは、ドーナツはリング状をしているが、ドーナツのリングの部分を食べた後の穴の部分をどのように名付けたらよいか、ということであった。あらかじめないものを考えることこそ不毛である。

じゃまた。

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