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ポスト・ポリティカル文学の夜明け|佐藤優「インテリジェンス人間論」

2017年1月7日 - Criticism Kritique, Kritique, Literature Kritique
ポスト・ポリティカル文学の夜明け|佐藤優「インテリジェンス人間論」

外交の本質はコミュニケーションではない。


外交の本質は人間観察であり、その人間がどのようなものでできているかを、実際に体験し、内面に持つことが出来るかどうかにかかっている。経験というよりも、実際に起こったことをどのように受け取るかが、対人関係の基本であり、本質である。現実を体験として言語化する過程で、本質直観がより磨かれる。社会とは人間の作ったものであり、その社会に付随するすべての学問は、言語により成り立っている。インテリジェンスとは、お互いの持つ言語のはざまを読み解く行為である。多くの人はこれを愛、もしくは哀しみと呼んだ、らしい。

前置きが長くなったが、佐藤優の「インテリジェンス人間論」を読んだ感想だ。この作家は凄い作家だと思う。めっぽう面白い。比較するのも変な話だが、高橋源一郎よりも面白いと思う。久々に面白い作家に出会った、というか本を読んだ。

もし、この世に本質的な愛の言葉あるとすれば、それは哀しみを肯定することだと思う。かつてシンニード・オコナーが「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」の歌の中で、「あなたがいないと寂しい」と歌っていたが、哀しみを肯定するというのは自らの心を相手に預ける行為であり、相手の懐に入る最大にして最強の技術である。愛を技術として用いるのは、プロのスパイの基本らしい。ちなみに、情報収集自体には役に立たないらしいけれども、一流のプロは沢山の逃げ場所を作っているらしいが、一番大切な逃げ場所は相手には預けないはずだ。そして、相手に自らの心を開くときは愛を使わなければいけない。

文学において、愛がテーマになったことはほとんどない。少なくとも近代文学において愛はほとんど一度もテーマには上がっていない。近代文学において人間関係をどのように扱うかということ自体がテーマとなり、それはほとんど男性作家の自意識の所産でしかありえなかったためだ。石川啄木など一部の作家が哀しみという言葉を使い、愛に迫ろうとしていた。それに比べて田山花袋は自らの悲しみの拘泥するだけである。恋愛ゲームの範疇を超えてないように気がする。

何故、愛に私が拘泥するかというと、政治的状況を打破しようとして生まれた文学に1970年代ごろ、学生運動を脱落した作家たちが多くいたため、その作家たちの小説のスタイルもまた恋愛の呪縛から解かれる形でしか解決しなかったからだ。しかし、佐藤優のノンシャランでありながらソリッドな文体は、高度なポリティカルな状況にいた人間の心理だけではなく、伝記的要素も含みながら現在形で成り立つという、現代日本ではほとんど成り立つ可能性のないスタイルを採用し、ある程度の達成をしている。

何故だろうか。それはいわゆるハードボイルド、カッコつけのエスピオナージュ小説ではないフィクションを本当らしく見せる嘘ではなく、実際にあった話をより本当のことのように見せる嘘を著者が対外関係において得意としていたからだ。そしてそれは情報を得るための仕事として行ってきた著者ならではの、経験からくる作業であるらしい。つまり本物のハードボイルドの自意識を持たざるを得なかった人物らしいのだ。

このような内面を持つ作家は珍しい。ほか著書を読んではいないが、もう少し読んでみたい。ただ最近のタイトル云々を確認していると、自らの考え方が正しいと思っているような傾向を感じられる。もちろん正しいので、佐藤優自身が、売文という仕事の本質を表現しているとも考えることもできるのではないだろうか。

ちなみに佐藤優は2015年に坂口安吾賞を受賞している。売文業で生計を立てている人間で受賞したのは、瀬戸内寂聴野坂昭如に続く三人目で、今後もこの佐藤優がどのような文章を書くのか、非常に興味深い。とにかく読んでみたい作家のひとりである。ついでに私の文章を読んでほしい、そして野坂昭如や瀬戸内寂聴等の文章なども読んでほしい。野坂昭如等の優れた文章を読みことの素晴らしさと快楽を味わってほしい。

余談だけれども、ポスト・ポリティカルというものはポスト・モダンの亜種のようなものだが、佐藤優の文章を読んでいると、真のポスト・ポリティカルというものがあるとするならばこの人の文章をさすのではないか、と思い、タイトルと繋げてみた。じゃまた。

Sinead O’connor(シンニード・オコナー)の「Nothing Compares 2U」について


最後にSinead O’Connor(シンニード・オコナー)「Nothing Compares 2U」のPVを載せておきます。「Nothing Compares 2U」はPrinceの楽曲をカヴァーしたものになっています。

Sinead O’connorは他にもNirvanaの「All Apologies」のカヴァーもしています。

さらにPrinceの「Nothing Compares 2U」とNirvanaの「All Apologies」も載せておきます。比べて聞くと、それぞれの魅力がさらに感じられると思います。

合わせて聞いてみると、PrinceやNirvanaのフロントマンだったKurt Cobainが表現においてパーソナルな要素が強く密室性があったのに対して、Sinead O’connorの表現はもっと大きなU(≒You)だったりAllだというのが分かる。PrinceのYouは一人のYouだけどSinead O’onnorのYouはもっと大きなYouである。Kurt CobainのAllは自分にしか関わらない(自分しか知らない)AllだけどSinead O’connorのAllは自分だけに留まらないAllである。

敢えて言えば女性、ということになるだろうか。一人の人間、個人でありながら女性であることを表現の核にしていたことこそSinead O’connorが闘争するフェミニズムのミュージシャンであると言われているゆえんである。

二度目のじゃまた。

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