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大人の絵本|三浦哲郎「ユタと不思議な仲間たち」

2017年1月12日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
大人の絵本|三浦哲郎「ユタと不思議な仲間たち」

三浦哲郎の「ユタと不思議な仲間たち」を読んだ。とりあえず泣きそうになった。ということはきっとすでに泣いていたのだろう。何か涙腺がウルッとくる感じである。そんな感じを味あわせてくれるのがこの作品なのだが、何故、そんなにウルッときてしまうのか。

小説とは基本的には嘘の話なので、こちらはそんじょそこらの嘘じゃ騙されないぞ、という気分になっているときがある。それはその小説、もしくは作家が泣かせよう、としてきたときである。こちらは文学中毒の活字中毒なので、どんな作品でもとりあえず読むし、いかようにも考えることが出来る。しかし泣かそうとするとそうはいかなくなる。怖がらせようとしても覚めてしまう。こちらの心に働きかけようという見え透いた嘘を感じるときがあり、それが気持ちが覚めてしまうのだ。

と書いている私は少し危ない奴のような気がしてきた。読書する快楽をむさぼるあまりに少々文学サイコパス化してはいないだろうか。とりあえず気のせいにして、ユタの話の続きをしよう。この話は東北の話である。東北地方へ転校してきた勇太がそこで不思議な仲間たちに出会い、別れることが物語の骨幹である。その物語が凄まじい。この物語の本当の姿はこのような形をしている。東北地方への転校⇒戦争時代の地方への疎開。座敷童⇒水子の霊。別れ⇒子供時代との決別。

物語自体を私はこのように読んだ。何故このように読んだかというと、三浦哲郎の死に彩られた経歴と、タイトルの中にあるユタという聞きなれない言葉からである。云うまでもなく、ユタ=勇太である。これは読んでいくとすぐにわかる。東北地方特有発音から生まれたオノマトペなのだろう。そして、この物語は勇太が新しい名前=ユタを受け入れていく話であるが、この物語は新しい土地に自らをなじませていく物語であると同時に、新しい言葉をユタが手に入れていく物語でもある。そして子供時代にこのような通過儀礼を生きざるを得なかった読者が自分自身に対して泣くのである。すくなくとも私は多分そのように泣いたのだろう。

そして、私が「ユタと不思議な仲間たち」を誤変換した結果、私のイメージは死、それも生まれなかった存在に対する不安が存在するのを感じるのだ。この無かったものを希求する心は一体どこから来るのだろうか。それは不安である。そして無へ何を期待するというのだろうか。存在の対する不安が私自身の肉体が無くなる瞬間、つまり0(ゼロ)への関心が生きることに対する不安が祈りへ誤変換されていくのだろう。

これはきっと多分、未来への期待だと思う。これから生まれるかもしれない、そして生まれなかったかもしれない、生まれたかもしれない命に対して、何か祈りのようなものを捧げたくなるのだ。しかし、私は神の存在や死後の世界を信じてはいるが、宗教者ではない。告白とはあまりには余りにも縁遠い生活者である私にとって、涙腺がウルッとくるのが祈りに近いのではないか。と私は自らの頬を伝う以前の、眼球を潤す涙を誤変換したのだった。くわつ、と眼球を剥き出しにして。じゃまた。

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