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本当みたいな本当のこと|佐野洋子「ふつうがえらい」

2017年1月13日 - Essay Kritique, Kritique, Literature Kritique
本当みたいな本当のこと|佐野洋子「ふつうがえらい」

佐野洋子の「ふつうがえらい」を読んだ。大体100ページほど読んだ後、ぼんやりしてゆっくりページをめくり始めた。頭の中でもやもやと考えが広がり、もの思う葦化している。そうか、人間は考える葦となったのは生きることにつかれてしまったからなんだ。歩き続けることにつかれ、ふと立ち止まった想念こそ考える葦の原点なのか。ならば人間の身体的感性こそ人間の本質だとしたら、考えるということは人間にとってなんと意味のないことだろうか。

歩き続ける人生を歩んできた人がふと、立ち止まり本屋に入った時、目に入る本のタイトルに「ふつうがえらい」という文字があったとしたらなんとなく惹かれるものがあると思う。それは、人間が生活をして、仕事をする以上、大事な感性ではないだろうか。ふつうというものは標準的なものという意味ではない。たぶん中庸という意味だろう。そしてそのえらいというのはコミュニケーションにおける正しさを指している。

人間関係においてフラットであるということは大事なことである。何故なら人間には感情があるからだ。人間は感情に突き動かされ、行動する。そしてその行動を経験として次につなげる。もしくは体験として持続していく。ただ、感情に突き動かされることは人間はあまりない。何故なら人間には感情を抑制するように社会的に訓練されているからだ。心理的抑圧という言い方をしてもいいかもしれない。

感情を大事にするのは大切なことだ。そして感情を持続することもまた大切なことだ。感情を奪う行為は対人関係においては、してはいけないことである。そしてそれは自らを特別に思う感情を奪う行為である。自らを特別に思うのは、どのような人間にさえ存在する尊厳であると私は思う。

人は特別であることであることの退屈さに耐えられなくなる時がある。そのとき凡庸さに憧れる。それは間違いだ。人間はどのような形でさえ特別な存在なのだ。凡庸さに対するあこがれは自らを高く見せる行為であり、他人を貶めるしぐさにつながるだろう。

生きることの喜びは束の間で、十全に感じるのにはもしかしたら人生は長すぎるのかもしれない。そのときこそスペシャルな自分を捨てて、凡庸な自分を思い浮かべるのも一興かも知れません。相対性理論の限界は幽霊の存在を認めることが出来なかったことだと思うのは私だけだろうか。この世に存在するものはすべて存在する。そんな恐ろしい人生の真実を感じるために、今日も風呂に入ります。ヘウレカ!じゃまた。

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