メニュー

くんちゃんのような子供は存在しない|ドロシー・マリノ「くんちゃんのもりのキャンプ」他

2017年1月27日 - Kritique, Literature Kritique, Picture Book Kritique
くんちゃんのような子供は存在しない|ドロシー・マリノ「くんちゃんのもりのキャンプ」他

あることにより、自分勝手に少し休みを頂いた、というか休む以前にいろいろと人生が大変だったがその部分は省く。その自分勝手な休暇に知り合いが紹介していた絵本を読むことにした。以前よりそのような本を紹介していたのは知っていたが、あまり読む気が乗らなかった。なんとなくその人の心に触れるような気がしたからだ。内緒で触れればいいのにと思うが、あまり気が乗らない。
と、書いていて文章が少しキモイ。まるでポエムみたいだ。
ポエムとは人間の瞬間的な感情を閉じ込める言葉の装置のことなので、仕方がないのだ。
少し休みを勝手に貰い、人と関わるのが少なくなったのでその絵本を読んだというのが今回の個人的な顛末である。
そして、読んでみた。そしたらなんとなく感動していた。最近私の涙腺は壊れていて、よく涙が出る。しかしそのようなこととは関係なく、くんちゃんの物語を楽しんだ。
楽しむのは結構だが、実際どのような物語か、考えてみた。で個人的に編集もしくは再構成をしてみた。
くんちゃんはくまなのでまいにちおとうさんとおかあさんといっしょにいる。くんちゃんは子供でブランコで遊んでいる。そのくんちゃんを誘いに、従弟のアレックがやってくる。なぜ従弟の名前がアレックなのか。くんちゃんの本名は一体何なのか。という疑問が頭をよぎる。
童謡に「さっちゃんはさちこだけれどもじぶんのことさっちゃんとよぶ」という歌がある。この場合さっちゃん=さちこである。しかしくんちゃんの本名はわからない。絵本を見てもわからない。くま=くんちゃんなのか。しかしなぜアレック…。と思いつつ読み進める。
読んでいくと、くんちゃんあかんやないか。とくんちゃんの行動一つ一つに突っ込みを入れたくなる。アレックもアレックで鼻に木の枝を載せてふらふらさせたりしている。基本的に二人ともあかん状態にある。そんなあかん二人だけれどもアレックは一応キャンプ場までの道順は覚えている。キャンプ場までの道順がアレックの頭の中には入っている。しかしくんちゃんはあかんかった。何故なら鳥に飛び方を聴いたり、水鳥に泳ぎ方を聴いたりする。あかんやん、と思うが、くんちゃんは滅茶苦茶丁寧にあいさつやお礼を言っている。おお、くんちゃんやるやん。
鳥に飛び方を尋ねたり、水鳥に泳ぎ方を尋ねるのは、プロのサッカー選手にボールの蹴り方を尋ねたり、プロの野球選手にバットの振り方を尋ねたりするのと同じで、何聞いとんねん。こちらはこれで生活と人生成り立たせとんねんと罵倒され、ぼこぼこにされる可能性がある。一言でいうと滅茶苦茶無礼なことである。
しかし、くんちゃんは何故かそのような目に合わなかった。何故?それはくんちゃんが子熊だから。という理由をつけたくなるが、それはちょっと違うと思う。私の脳内でも100人に聞いたら、90人が違うといった。何故?理由を考えてみた。
くんちゃんが子熊だったとしても、いや子熊だとしたらなおさら、水鳥がいくら泳ぎのプロフェッショナルだったとしても、一瞬で食われてしまう。子熊でも哺乳類の中では最強種族の中の一つである。滅茶苦茶肉食である。パンダだって見た目は爆笑メイクだけれども襲い掛かられたらアウトである。
くんちゃんは相手に対して忖度がない。自分の興味で相手に聞いている。相手に対して自分がどのように思われているか、またどのように思われたいのかがめちゃくちゃ少ない。つまり自我がまだ育っていない状態なのだ。自分の暴力性に気付いていないために、ある程度丁寧に礼儀正しく相手に対応することが出来ている。おおおお、くんちゃんやるやん。
しかし、このくんちゃんに対してアレックの野郎は愚痴ばかり言いやがる。と思うこともあるが、アレックはアレックで帰りの道順を忘れている。だめやん、アレック。
しかし、エラそうな態度のアレックだが、くんちゃんが道順を示した後、一言多く言うけれども、くんちゃんの後をチャンとついてきているのだ。
そして、そのたびにくんちゃんは今まで会った人たちに挨拶をしている。水鳥や鳥など、それぞれのプロフェッショナル達に挨拶をして、あなたたちのやり方は僕には向かなかったけれども、自分のやり方でできるようになった。と。
やはり、くんちゃんは偉いので、なぜ自分で帰り道を作ったのかというと、くんちゃんには相手を敬う気持ちがやはりあるのだ。そしてその気持ちがくんちゃんの行動原理なのだ。
その点、アレックは最後まで自分の凄いところだけを言い続けた。終いにはくんちゃんの両親にまで、いかにくんちゃんがダメなやつで自分が優れているかをアピールするのだった。アレック、あかん。
しかし、くんちゃんは大人で、最後に道順を覚えていたのはぼくなんだと両親に告げる。くんちゃんの勝利なのか。
もしかしたら、この話は先輩面したアレックに対してくんちゃんが大逆転ホームランを行い、意気揚々と自らの勝利を告げる物語なのか。くんちゃん、やるやん。
この物語を読みながら、私はいつの間にかくんちゃんのファンになっていてしまった。くんちゃん、やるやん。

夢中で本を読んだ後、家までの道を歩きながら考えていた。
この読み方、ちと違うのではないか。つまり、てっぺんが間違っている。
当たり前のことだが、くんちゃんは自分ではキャンプに行こうとしていないのだ。冒頭の部分を見ればわかるが、ブランコばかりしているのである。ブランコしていてもブランブランしているだけで、どこにもたどり着かないのだ。
そんな自由なくんちゃんにたいして、くんちゃんのやることに対していつも一言多いアレックだけれどもくんちゃんを連れて行ってくれる人がいるのならばと、預けて、どっしりと構えていられる両親が素晴らしい。
この話は一見、くんちゃんの大冒険に読めるが、実はくんちゃんを育てようとする両親の心構えを説いている本なのだと感じた。そして時として不当な暴言にもめげずに自分の選んだ道とやり方からくんちゃんに経験を積んでほしいという愛情を感じる。
この本を紹介してくれた人に私は感謝したい、と言っても特に紹介されたわけではない。私が勝手に読んだのだった。そして、勝手に読んだのだから、私の物だ。返せと言われても返さない。一体私は何と戦っているのか。幽霊か。いるはずもない幽霊の存在を私は信じているのか。
冗談はさておき。
この物語は兄弟間の物語としても読めるし、兄貴は自分をよくアピールしたいのと無邪気な弟に対するコンプレックス、弟は兄貴に対して甘えと遠慮というものが内在しているとも言える。しかし、お互いに意思の疎通があれば、もしかしたらうまく言う場合もあるのではないか。

とにかく、物事には全て終わりというものがあり、そこにたどり着かなかったのは私としては残念である。そんな奇妙な諦観に襲われながらも、いまは自分にできることをしている。英気を養っている。暴言も過ぎると毒になってしまうので、同じような熊なのだから、喧嘩は良くないなと熊である私は思う。って、熊じゃない。人間。
近所の図書館に行き、くんちゃんシリーズを読んでいたら気持ちが熊になってきてしまった。図書館では親子連れがほとんどで、おっさんが一人でぽつねんとくんちゃんを読んでいるのだった。しかも泣いているのだった。怖っ。しかし、そのおっさんは私だった。さらに怖い話である。

くんちゃんとアレックの物語は落語の世界の登場人物みたいで面白かった。ははは、って笑うしかない。

じゃまた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です