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超文学|岸本佐知子「ねにもつタイプ」

2017年1月31日 - Essay Kritique, Kritique, Literature Kritique
超文学|岸本佐知子「ねにもつタイプ」

この世にナンセンスエッセイというものはいくらでもある。かどうか知らないがどんな形にせよ役に立つという部分で文章は成り立っている。それはもともと文章とは人に自分の意志を伝えるために発明されたスキルだからだ。そのため普通、人は文章を読むときに、「この文章は何を言いたいのか」と考える。人は意味もなく文章を書かない。書くには何らかの意味、伝えたいことがあるはずだ。と考える。
しかし、この世には意味、つまり意志のない文章というものが存在する。それがこの岸本佐知子著「ねにもつタイプ」だ。この文章はめちゃくちゃおもしろい。読んでいてにやけてしまう。どこがにやけてしまうのか。普通、日常的なエッセイの場合、普段の現実的な生活から、啓蒙的な内容に文章が変化したりする。また、驚いたことから、自分に対する反省、その後自分を変えるきっかけへ、と文章が変化する。基本的に随筆というものは教養ある人間が手慰みに周囲に自分の考えを伝えるものであり、そのせいで説教臭くなってしまうのだ。

しかし、「ねにもつタイプ」の変化の仕方は日常性と非日常性がフラットに存在してしまっているのだ。友達がいても人間じゃなかったり(多分)、町が(多分)ゾンビ町であることに気付いたりする。
普段から人は心の内を見せない。不安だったりしても出さなかったり、喜んでいても出さなかったり、怒てっていても出さなかったりする。内面が存在するからだ。自分の中で納得して、生きることが出来るからだ。ただ、その場合、相手に倫理を伝えようとする場合がある。例えば「このような行為はいけない」や「ちゃんと挨拶をしなさい」という注意である。もっというと「人を殺してはいけない」や「勝手に過去を変えてはいけない」や「人のことを死んでいないのに死んでいるように扱ってはいけない」というものもある。

人間の持つ心のうちとは不思議なものだ。人が生きる上ではルールというものがあり、そのルールにのっとって人は生きている。しかしそのルール自体を勝手に変えるということがあったならばどのようなことが起こるだろうか。文学とは教養によって成り立っているものであり、その教養を伝えるものである。という文学における不文律を超えてしまう文章、つまりルールを無視しながらも勝手に自走してしまう自動車がこの世にあったならば、ということを考えることだ。まるで、「AI」のように、ロボットが感情を持ったならばについて考えるのに似ている。つまりナンセンスである。

それはともかく、このような問題に周囲はどのように対処するだろうか。

多分、暴走する車には誰も近寄らないだろう。勝手に暴走して事故を起こすとよい。と周囲は思うだろう。がしかし、その暴走している車が狂いながらも事故を起こさずに走り続けたならばどのような世界が生まれるだろうか。
それはきっと誰もが見惚れる素晴らしいサーカス芸であり、まるで映画の中のシーンを永遠に見ているようなような奇妙な感じになるだろう。感動である。言葉を失うのではないだろうか。つまり解釈することが出来なくなってしまう。

そんな、奇妙な感動に包まれながら私は本と閉じた。本を閉じたとたん、いったい何が書いてあるのかを忘れてしまった。私は慌ててもう一度本を開き、ページをめくるのだった。じゃまた。
ちなみに、超文学というタイトルは文学はあくまで学問なので越えられないものであるというものに対するあてこすりであって、大して意味はありません。

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