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希人こぞりて|福田和也「乃木希典」

2017年2月9日 - Criticism Kritique, Kritique, Literature Kritique
希人こぞりて|福田和也「乃木希典」

福田和也の「乃木希典」を読んだ。福田和也の評論家として活動は日本人のイデオロギーを解体し、再構築することだった。彼の始まりの評論は「奇妙は廃墟」というタイトルの評論で、ナチスドイツ政権下のフランスでナチスドイツに協力した8人の作家を評伝形式で描いた評論である。評伝形式の評論は批評という文学形式が根付いていた日本ではかなりの衝撃であり、澁澤龍彦の持つ自分自身の趣味性から生まれたエッセーや種村季弘の無私の人を取り上げた「山師カリオストロの大冒険」等の評伝に近いかもしれない。つまり日本ではほとんどなかった形式だった。

 

その後、福田和也の視線は日本に向き、戦中戦後の日本人の観念(イデオロギー)事態に対する大きな不信感と、文学に対する大きな期待から「日本人の目玉」という将来の日本を幻視する奇妙な日本人論を描くことになる。この評論は、作家という言葉で自らを成り立たせている人間が持ちえるであろう最高の目とは一体何なのかを描くことで、イデオロギーが日本人の場合、ある程度目に見えるものとして存在するということを喝破した画期的評論である。つまり空気を読むという俗な現象をよりハイカルチャーの部分で解釈することにより、日本の中に根強く蔓延るイデオロギーという幻想を打ち砕き、アウトサイドを生きる人間の持つ高貴さをより深く抉り出そうとした。

福田の視線はその後、昭和天皇や石橋莞爾を主人公とした評論で幻視される近代イデオロギーを解体することになった。

そこで「乃木希典」であるが、この評論は彼自身の乃木希典に対する深い興味から生まれている。それは司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いた戦争下手の詩人であったという、かつては日本人の理想の姿と目された乃木の看板にたいして、より本質直感を働かせることにより、何故これほど乃木希典という人間は多くの人に愛されてきたのかを、読み解こうとする評論である。

そこで私もこの評論を読んでいて、気になった部分を自分自身の感想をもとに編集、再構成をしてみたい。

乃木希典の特徴は優しいことだ、と福田は描いている。そしてよく優しさは弱さからくるものだと人はいうが、乃木の弱さは確かに自分自身の武力の弱さから来ていた。しかし、なぜ彼が、自分の弱さを克服することなく、弱いままで自分自身の人生を生きたか、という部分を今までの司馬遼太郎の「坂の上の雲」は読み落としている、と私は感じた。
確かに日露戦争における乃木希典の無能ぶりは半端がなかった。「坂の上の雲」の二〇三高地の戦いは酸鼻なものだった。現象だけ見れば、彼のやり方は指揮官としてはどうにもならなかった。何故、彼はこのような暴挙に出たか、「坂の上の雲」を呼んだ多くの日本人は感じただろう。それは第二次世界大戦と重ね合わせて、指揮官の無能を信じ、戦後日本を盛り立てていくための人柱として乃木希典を描いたために起きた現象だった。

多くの日本人は乃木希典に対するイメージを変えずに、今でも無能な指揮官の例え話に取り上げられるぐらいである。しかし、多くの物語がひしめくようになった日本において、いまだ夏目漱石や村上春樹が国民的作家と言われながらも、彼らがあくまで個人主義的な部分でしか無能の人を描きえないときに、福田和也の暴挙は喝采を浴びたことだろう。
そして、彼が描き出した徳という奇妙な価値観は現代を生きる日本人は無視できないだろう。彼のような生き方を無視できないだろう。何故ならば彼のやさしさは現代においても全くナンセンスであるからだ。そして、だからこそ聖性を持ちえるという逆説自体が、かつて日本人が信じていた伝説ではなく、現代を生きる上で自分自身の人生を引き受けるという高貴さが価値を持ちえるというインテリジェンスを福田が有しているからだ。そしてそのインテリジェンスは文学において逆説ほどナンセンスなものはなく、人生をより肯定的に捉えようとする福田の意志に繋がる。何故ならば、彼の知性があくまで現実感覚にのっとって成り立っているからだと思う。

現代において、イデオロギーはいかに解体されるべきか。村上春樹が解体しようとする魂の解体、再構成という物語論と作家論がないまぜになった小説世界とは別の方角から、福田もまた集団的自意識を解体しようとしている。それは日本人の持ちえなかった他人の目をいかに持つか、つまりヒューモアを持つことが文学においてどのような働きをしてきたかを、解体し再構築する作業だと思う。
その批評性は、あくまで現実認識、社会認識に基づいた物語であり、社会的地位の高かった人物を個人として成り立たせようとする所業を行っている。
福田の批評には文学が真に政治的社会的に価値があった時代に対する憧憬を感じる。また、その認識力の高さが空恐ろしいのは、彼の持つ批評眼が今ある日本の批評を揺るがそうとしながら戯れとして遊び姿に見えるからだろうか。

今回はイデオロギーと優しさをテーマにして書いてみた。社会を解体するという行為は基本的に再構築することが大前提である。テロリストは基本、破壊することしかしない。そして破壊するということは自らも壊れるということであり、乃木の壊そうとしたものは、自分自身だったという逆説がイデオロギーと優しさの大前提であることを指している。
その優しさこそが彼自身の死に際を描き、まるで高徳の人として乃木の姿を描いてしまった。しかしこの評伝を読むと、彼は何度も死を経験しているように感じる。彼は自分の弱さを人生かけて証明してしまったのだ。弱いことの意味を。弱さというものの持つ特質を。

もしかしたら、現代における太宰治に対する評価とも繋がるのではないだろうか。しかし太宰は永遠に自らの正義を信じなかった。しかし乃木は信じた。太宰の態度を大人ととるか、乃木の態度を大人ととるかは、人によって違うだろう。良いタイミングで死を選べると、人はその人の人生に意味をつけたくなる。よくある話で心残りというものだ。そういう時は、笑い話にするのがいいと思う。きっと彼らもそれを望んでいるはずだ。じゃまた。あ、タイトルの意味は、とりあえず祝おうみたいな意味です。何を、って知らない。

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