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タケちゃんの聖書|色川武大「私の旧約聖書」

2017年3月17日 - Essay Kritique, Kritique, Literature Kritique
タケちゃんの聖書|色川武大「私の旧約聖書」

「世界三大」という言い方はよく聞く。世界三大美女といえば、クレオパトラ、楊貴妃、小野妹子小野小町である。すごい。日本人が入っている。というか、基本的にアジアンビューティーぞろいである。世界は狭いな、と感じるのは私だけか。世界三大宗教はキリスト教、仏教、イスラム教。凄い。大川隆法か。

と考えると「世界なんちゃら」という考え方は政治的なにおいがする。そこで個人的に「世界三大武」を考えてみた。とりあえず北野武である。それから色川武大。もう一人武で有名な人と言えば…宮本武蔵ぐらいだろうか。なかなか難しいのは誰でも知っている人を上げなければいけないということだ。つまり色川武大はふさわしくない。なのであくまで個人的なものである。

そこで、今回は色川武大著『私の旧約聖書』である。この人はかつて『麻雀放浪記』などを描いていた人で、その後純文学作家に転向した。『怪しい来客簿』や『狂人日記』などは今読んでも面白いのでお勧めです。

もともと、純文学作家の資質を持っていた作家であるのは彼の小説を読むとよくわかる。テーマ自体は内田百閒の系譜の幻想的私小説を形作っている。非常にインテリジェンスが高いが、かれの語り口は自分を戯画化した感じがあり、そののろさが彼自身の文章、小説の恐ろしさを際立たせている。

かれは所謂アウトサイダー系の作家で、伊集院静著『いねむり先生』のモデルになった人だ。ばくち打ちで作家になった人に白川道等もいる。白川道もまた転向した作家であり、バブルの色と慾の部分を端然と味わい尽くした経歴を持つ。多くの男はこの男臭いダンディーさに惹かれるのか。

私は白川道にはほとんど興味がなく、横森理香の『ぼぎちん』の方が読んでいて面白い。

余分だが、武田百合子も読んでいると非常に面白い。彼女の眼力には空恐ろしさを感じる。

閑話休題。

色川武大の小説の魅力は、登場人物への目線の魅力的なことだろう。短編に『走る少年』<遠景・雀・復活 色川武大短編集(講談社文芸文庫)>というものがあるが、このような内容で純文学として成り立たせた作家は、色川武大以外いないかもしれない。少年性をむき出しにしながら、清新な印象を読む者に感じさせる力量は惚れ惚れする。

所謂イービルアイを使わずにこのような小説、文学を何故色川が作り出せたのだろうか。

今回の旧約聖書にしてもそうだ。所謂神話内登場人物も色川の目線にかかると、現代的雰囲気を醸し出してしまう。しかしフロイト的精神分析ではなく、あくまで経験から人間臭さを取り出そうとしている。戯文調なのは、この文章があくまで読み物としての面白さを優先させた結果だろう。

もしかしたら、人を喜ばせたい、面白がらせたいという部分が彼の取って文学の骨幹として成り立っているために、イービルアイではなく、エンジェルアイを使い文章を作れるのだろうか。

文学の特徴は基本的に大人の読むものというのがある。そのため文章のほとんどはイーブルアイによってなっている。つまり子供の読む者には子供の文体、大人には大人の文体という考え方がある。あくまで学問のため、インテリジェンスが多用され、読んでいて面白くないものもある。

しかし、子供を楽しませたいというエンジェルアイを持つことを文学の達成にした太宰治は戯文をより探求し、没落する貴族のフラジャイルの部分をより破壊された戯文を使い、世界を構築した。

斜陽』が当時から現在まで多くの人に愛読される理由は、三島由紀夫の持つ世界が殆どの人にとって共有されえない世界であるのにたいして、『斜陽』は大人にまるで、子供時代から現在まで続く悪癖を暴露されたような気がするのだ。そのためインテリジェンス以降のクレバーさを感じる。

太宰の天才のゆえんではないか。

色川自身は、人との距離の取り方が独特であるため、戯文調でも大人の雰囲気が感じられる。彼の目は鋭すぎて、天使にはなれない。あくまで機械仕掛けの天使であり、カミソリみたいで、出来るのならば私こそ、彼のような人間のことを、遠くで見ていたい。傍観こそ人間の持ちえる最大の悪癖かもしれない、と呟きつつ。

旧約聖書の特徴は地獄、所謂死後の世界が存在しないところだ。と色川は書いている。この文章はなるほどで、現代の心霊世界、また精神世界をモデルにした宗教にはほとんど死後の世界が描かれている。何故なら、現代の宗教はあくまでキリスト教や仏教など色々な情報を取り入れて成り立ち、そのうえで現代人の一般的インテリジェンスにかなうように設計されているため、死後という概念を否定することができないのだ。

現代の宗教の教義については私は不勉強でほとんど知らないが、多分、非常に教義が肥大していると思う。それは情報ついて、あくまで解釈を続けなければならないからだ。宗教は神や神霊や精神世界をテーマに成り立ち、社会不安を取り除くことが命題となっているため、解体すること自体が、現代社会の不安を見つけることで、今より時間がたたなければ、社会自体の解体が困難であることが理解されるだろう。

そこで世界最古と言われる、少なくとも新約以前、つまりキリストが誕生する以前の宗教である旧約を色川が読んだ意味にたどり着く。新とは新しいことで、旧とは古いことだ。古い契約とは日本においては家の概念と近いと感じる。それは人間は生まれて死ぬまでに新しい家族を作る人が殆どだからだ。
色川の孤独は家郷に対する一定の距離間である。この関係性を描くとき、色川のイービルアイが発動する。そして、彼の目を家に対して、自らの世界観を成り立たせることに対して予断がない。空恐ろしいのは、家郷の世界のほとんどの人が不幸、つまり文学に彩られているのだ。

このような世界をいかに地獄を見ながら色川は手に入れたのだろうか。彼のホームレス経験が家庭、家郷と家の現象に対して、多くの時間を費やさせたのか。

家の中で私として生きることのしんどさと喜びを十全に味わうということは、聖書という物語を彼自身が喜びをもって接していたのではないか。
嘘はいらない。初めから嘘でしか生きることができないからだ。

ここまで、書いてみてまるで今の私が旧約聖書の世界に生きているような気がしてきた。そのようなことはない。現代に生きる上で大切な知恵ではあるかもしれない。しかし、発表当時はそれなりに刺激的だった題材もはや、文学としての意義しかなくなっている。家郷の文学化、私の幻想化。

そら恐ろしくなってきた。

非常に困憊していて、たまに寝ているか起きているかの違いがなくなってくる。もうすぐ朝なのに、徹夜をした気にもなれない。それは文章を打つこと自体が仕事とはかけ離れている作業と近いからかもしれない。それは、自分の手に入れたタイピングという技術を無くしたくないためのだけに打ち続ける指の動きに気持ちのよさを感じているのかもしれない。羽をもつ鳥が飛ぶことに何に疑問も持たないように。爪を持つライオンが無視を払うがごとくに殺戮を起こしてしまうような。

自然にはあり得ない指の動きを、出来るだけ滑らかにするというのは私自身にとってまるで「不気味の谷」のような感じがする。

多分そのために、私は「新約」ではなく「旧約」を読もうとした色川武大に成り代わるかのように、この本を手に取っったのかもしれない。

じゃまた。

タケちゃんの聖書|色川武大「私の旧約聖書」」への2件のフィードバック

unknown

僭越ながら、小野妹子は小野小町の勘違いではないでしょうか。

返信
yamantaka

そうですね。書き直します。

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