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守るもの|今日マチ子「COCOON」

2017年4月19日 - Comic Kritique, Kritique
守るもの|今日マチ子「COCOON」

人が生きる上で必要なものとは何だろうか。人間は生命体なので衣食住は欠かせない。現代社会では金銭を伴った経済活動が主に行われているので、金銭が必要だ。金銭を得るには仕事をしなければならない。仕事も必要、と考えることがある。

しかし、もし人生というものを短いスパンで考えたとき、仕事も一時のもの、金銭は衣食住のクオリティーを支えるのには必要だが、瞬間的な命の運動を人生のテーマとすると、人間が生きる上で必要なのは、物語とそれを信じ続ける意志が必要なのではないだろうか。

ということを思ったのは今日マチ子著「COCOON」を読んだからだ。この本を手に取ったのは以前TVでこの作品を原作にした舞台を見て、なんとなく心揺さぶられるものを感じたからだ。そしてその思考は私に非常にバロックでハードに構築された世界観を感じさせてくれた。

この漫画は戦争、多分第二次世界大戦の時の日本を舞台にしている、と思う。何故、確信が持てないのだろうか。この物語を読み終わり、作者のあとがきに「ひめゆり学徒隊」の話がモチーフになっているという文章を読んでも、このコミックがいわゆる戦争をテーマにしているとは私には感じられなかった。

もちろん、戦争の時だからこそあり得るであろうリアリティーによって成り立っている挿話の一つ一つにはいちいち感動したし、電車の中でこの漫画を読み終わった後も、何を考えればいいのか、自分が何を考えているのか、そもそもこのような話は本当に存在していたのか。と考えることがあった。

今の私がかつて何か大きな間違いをして、この電車に乗り、この本を読んでいるような、生きる上での人間の本質的な不安を優しく逆なでされるような、奇妙な気持ちに襲われた。

かつてジェイムス・ジョイスは「ダブリナーズ」の短編の一つに「死者たち」と名付けた。この物語は登場人物が最後の方で実は全員死んでいたという、もし現代で小説家がこのような落ちを物語につけたら、よほど面白い話ではない限り、散々な非難を受けるだろう。
「全員が死者」や「全員が犯罪者」や「全部が夢」や「全部が嘘」の物語、いわゆるオール・オア・ナッシング・ストーリー(今私が名付けた)はよほど物語の作りが巧みでない限りなかなか手は出せないのだ。ジョイスの「死者たち」はちなみにすごく面白い。かれは「フィネガンス・ウェイク」や「ユリシーズ」のような現代では前衛と呼ばれるような小説だけではなく、ちゃんとした小説もうまく書ける非常に才能がある作家だったのだ。

この物語が私の心を逆なでするのは、もしかしたら死というものを私が軽く扱いすぎたせいかもしれない。それは人生を軽く扱うことと等しく、人の生きる上での営みを蔑ろにする心を私が持ってしまっているということなのかもしれない。

だけれども、この物語は自分自身の悲しみに向き合うというよりも、優しく強く寄り添うような、まるで非常に柔かい、けれども最高の強度を保つセーフティネットのような役割をもしかしたら多くの人に伝えることができるのではないだろうか。

とにかくすごい物語だ、と私は電車の中で、思った。

ところで、この物語の肝は主人公の一人の造形にある。マユが女性ながら男性的思考を持っているという部分から、実はマユが男性で戦争に徴兵されることから逃げていた人物なのではないか、という部分まで想像したが、この物語ではマユの構造は少し複雑になるが、男性でありながら内面は女性で、女性が好きな女性(?)なのだ。多分。

そのことで最後にマユが亡くなるときに、マユが実は男性だったとサンが知ることでマユが破れるイメージが純度の高い結晶となり表現されている。

あくまで物語の関係性で描かれているため、最後は生きる意志というある種生ぬるい決意につながる。現実を生きることは死を選ぶよりも実は容易い。死のさなかにいる者にはその容易さを知ることは出来ないのだろう。このインテリジェンスを否定した生ぬるいセンスこそこの物語のマユである。

ちなみにサイドストーリーの「バースデー・ケーキ」は今日マチ子の持っている感性がもともとユーモアによって成り立っているのがわかる作品である。面白くてやがて恐ろしい話であろう。

書いていて少々センチメンタルになってしまった。優雅なんて性分だ。雨が降ったら傘をさすのは常識だ。

じゃまた。

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