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私は全く気にならない|岸本佐知子「気になる部分」

2017年4月22日 - Essay Kritique, Kritique, Literature Kritique
私は全く気にならない|岸本佐知子「気になる部分」

エッセイというものは基本的に事実をもとにした所感のようなものである。じゃ小説はどうか、と問われることがあるが、小説については事実を補完する物語を作り説明するのが小説だと、私は思う。なので、所謂感想文は小説ではない。「今日はお母さんとお父さんと、山へ行きました。お弁当がおいしかったです」では(多分)小説にはならない。この「ハイキング」をより補完する物語、事実を文章で補完、説明するのが小説だ、と私は思う。

そこで岸本佐知子の面白エッセイ集「気になる部分」である。彼女のエッセイに特徴はそこに書かれている物語、言葉、文章が嘘か本当か、読む者にはわからないところだ、と私は思う。このエッセイに書かれている内容は「今日はお母さんの葬式に、おかあさんといっしょに行きました。お母さんは自分の亡骸を見て、泣いていました。」のような奇妙な話で成り立っている。

子供の嘘、というより熱に浮かされた子供がうなされている言葉を録音して聞いてみたら、なんとなく面白いこと言っていた、みたいな妄想でもなく、幻想でもなく、一時の気の迷いのような、本気で読み込んだら、突然絶壁から落とされるような…と悪夢なのだけれどもチャーミングな世界観が非常に魅力である、と私は思う。

それは著者の岸本佐知子さんが翻訳家であることも関係するのかもしれない。彼女はブローディガンの小説の日本語翻訳を行っており、「アメリカの鱒釣り」「芝生の復讐」などの超短編から、「愛のゆくえ」なども翻訳している。ちなみに私はブローディガンの小説のファンである。恥ずかしながら、一時期図書館から借りて読んでいた時期がある。

物語性が排除された作風と言われているが、ブローディガンと同時期のいわゆるビート世代の作家たちは日本でいえば「文学的」な言い回しに対する疑念を感じる。このようなもの自体が文学と呼ばれるもので、文化の消費のスピードが速くなってきた現代的な考え方なのだと思う。物事を両義的に見ることは、個人をより個人的に求めることで、個人というより孤高な感じがする。

最近ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したのは、アメリカのビート世代を代表して受け取ったのだと思う。そのため、受賞のレスポンシブを遅くしたりと、かなりイラつかせるパフォーマンスを行ったのだろう。ディランがクレバーだと感じるのは、ノーベル賞を受け取ったことだ。何故ディランが受賞したのか。それは、ほかのビートニクの作家たちが結局、反社会・反文学的作家であり続け、アメリカ社会において認知されなかったことと大きく関係するのではないか。

と書くと、バロウズとかケルアックとかギンズバーグとかメチャクチャ評価されてるじゃん。と思うが、この作家たちで自らの文学を、文学論として論じられた作家がいるだろうか。私はもしかしたらいなかったんじゃないかと思う。

それは、彼らの出自が明確ではなく、時代の境目としてはベトナム戦争かもしれないが、ベトナム戦争自体の評価がアメリカにおいていまだ明確にされていないのが大きいのではないか。アメリカの侵略する正義がベトナム戦争後分裂し、その心情分裂後の自由への道を描いた文化の一方がビートニクが担ったが、その自由への道が社会性において頓挫した結果、アメリカは自由を身上とするため、ビートニクたちの失敗は認めることができないのだろう。

それは、ビートニクの提案の一つである「愛」だが、「愛」が、結局人間が生存するための経済活動の一つに過ぎないという本質が他者の侵略する正義自体がすでに分裂した一つの症状を表しているためだろう。

「ディランが社会的になぜ成功したのか。」というのは結構大事なテーマで、彼は他の多くのビートニク作家たちと出会いながら、唯一生き延びた人間のようにふるまっているが、ディランは非常にクレバーな人物でセックス・ピストルズのジョン・ライドンのように、常に先を見て生きているのではないだろうか。一つの思想にとらわれず、自らの表現をし続けることがジョン・ライドンのテーマだったように、ディランも多くのビートニクたちと出会いながら、ビートニクという思想にとらわれず、自らの表現を求めてつづけたからこそ、音楽家として、社会的に評価されたのだろう。

話がかなりずれた。岸本佐知子さんのエッセイが面白い理由だが、それは彼女がエッセイにおいて夢か妄想か奇妙な言説を扱いながら、なぜこれほどチャーミングなお話を作れるのか、に繋がる。

彼女はエッセイの底にある部分において嘘が無いように感じるのだ。彼女の話は普段人が感じる無意識な認識を、違う言葉で置き換えているように感じる。そして、その置き換え方においてさえ、彼女は自らの感性を否定していないと感じるのだ。初めの【空即是空】は仏教の本質的思考の【色即是空・空即是色】のもじりであるが、タイトルの妙、とでもいえる内容となっている。

無意識に考えてしまう内容をつくというのは結構、難しいのではないか。普段仕事をしていれば、無視してもいい部分で、そこを掬い上げるのは、自分の思考を何度も繰り返す作業で、退屈にも程がないのだ。

翻訳とは言葉を選ぶ仕事で、しかもブローディガンというビートニク(疲れた)作家の翻訳となれば、疲れるに決まっている。その作家と付き合いながら、これほどの仕事をこなす岸本佐知子のことが気になるかと言えば、私は全く気にならない。

つまり私が気にならないのは、私のことであり、岸本佐知子のことは気にいっている、ということだ。

普段誰もが気にしない部分を、【気に】しながら、読む人間にその部分を気にさせないという離れ業を行えるエッセイストは岸本佐知子ぐらいかもしれない。

では問題です。今回私は【私】という言葉を何回使ったでしょうか。このような文章を書くことにさえ、私は一向に気にならない。

自分が疲れるということは、相手を疲れさせることで、一人疲れていたらみんな疲れる。疲れたら家で寝ていればいいと思うけど。どう?

じゃ、また。

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