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神々のプロレス|萩尾望都/光瀬龍「百億の昼と千億の夜」

2017年5月4日 - Comic Kritique, Kritique
神々のプロレス|萩尾望都/光瀬龍「百億の昼と千億の夜」

子供のころTVや漫画や小説などを読んでいて夢想していたことがある。それは「もしウルトラマンと仮面ライダーが戦ったらどっちが勝つだろうか」ということだった。当たり前だが、かたや超人、3分間だけれども巨大化することができる。片方は昆虫(バッタ)と人間の混ざった改造人間である。なんとなくウルトラマンが勝つのではないだろうか。友人たちも「ウルトラマンが勝つだろう」という話だった。このウルトラマンと仮面ライダーを現代のコミックに置き換えるのならば「進撃の巨人」と「テラフォーマーズ」といったところだろうか。ちなみに私はどちらも読んだことが無い。
アメリカンコミックの超人同士のバトルを描いた映画があり「アベンジャーズ」はその最たる例だろう。その後、アメリカンコミックのパロディであり批評性を持ったコミックを映画化した「ウォッチマン」、アメリカンコミックの代表的ヒーロー二人を主人公にした「スーパーマンVSバットマン ジャスティスの誕生」アメリカンコミックのヒールだけを集めて主人公化した「スーサイド・スクワッド」などバラエティに富んでいる。

日本を漫画から考えてみる。例えば「ドラゴンボール」の「孫悟空」と「ワンピース」の「モンキー・D・ルフィ」が戦うということはない。コミックでも存在しない。だけれどもゲームでは存在する。この違う世界の人間が戦う、能力の全く違う人間同士が戦うという漫画を描いたので冨樫義博「幽遊白書」や「ハンター×ハンター」で、要は日本は絵のスタイルが漫画家によってかなり違うので、作者の作画能力のポテンシャル自体がキャラクター能力とコミットされてしまうため、日本の漫画ではコミック間をまたいだ戦いは成立しずらい。ゲームで成立しやすいのは、著作権の話もあるだろうが、それよりも、能力がすべて数値化されるからだと私は思う。

数値化されるということは、時間軸自体が存在するということになる。その時間軸が揺らぐとき、スタイルが相対して戦うことができる。「ジョジョの奇妙な冒険」の能力者同士しか殆ど戦わず、其々の章の最強の敵が時間を操る能力であるのはその意味があるのだろう。

そこで今回は萩尾望都作画・光瀬龍原作の「百億の昼と千億の夜」である。この物語は歴史上の偉人(プラトン、イエス・キリスト、シタールダから阿修羅、主、ポセイドンetc)が登場してバトルを繰り広げる。一応この話の特徴は階級的な部分を描いていて、その階級が一つの円の形をしている。その縁が内側外側の繰り返しになっており、昼が存在し、夜が存在する。しかしその夜の裏に昼が存在して、その裏に夜が存在する。一応絵にしてみるとこのようになる。(図1)

何故ならば内側が外側を兼ねるということは、完全な内側、つまりその現象、物事の軸になる部分が、実は外側に存在する可能性も捨てきれないからだ。そのため、世界を見るとき、時間軸自体がぶれている可能性を持ってこの物語は進行する。

ウォシャウスキー兄弟の映画「マトリックス」もこの漫画と近い構造を持っており、主人公が本当にいる世界は現代ではなく、未来の主人公が見ている夢の形でしかないというものだ。このような狂気をシュルレアリズムで表現した作家がアンドレ・ブルトンの「狂気の愛」であり、ブルトンなど西洋のシュルレアリズム作家たちは個人または身体性において狂気を描いたが、「マトリックス」やその後の「スピードレーサー」「クラウド・アトラス」などは家族の世代の狂気を描いている。もしかしたらウォシャウスキー兄弟両者とも性転換手術を行ったことが関係するのかもしれない。特に「クラウド・アトラス」はSF叙事詩の形をとりながらも「めぐり合う時間たち」のような時間の流れを構造的に表現しようとしている。

時間軸をテーマとした表現の骨幹は個人やロマンチシズムが、底流に流れてしまうのがよくある話で、「ゲド戦記」の後半は影との闘いを経たゲドが主人公ではなく、わき役に回っているのが、物語の肝だと私は感じている。

そこで、英雄叙事詩の形をとりながらも、阿修羅というある種傍観者の闘争的アウトサイダーキャラを魅力的に描いた「百億の昼と千億の夜」は実はとんでもないマンガだと私は思う。またキリストを訛り丸出しの田舎者(正義の味方)と描いたり、裏切り者のユダを孤独な善人と描いたり、其々登場人物の歴史上の役割を新しく描きなおそうとする企みもなかなか読みごたえがある。

阿修羅やユダが物語で重要な役割を果たしているのは、彼らが物事を図1のように見ているからではないだろうか。阿修羅やユダが欲しているのは真実であり、彼らは世界の真実を求めている。阿修羅が外側への受動性によって成り立っているのにたいして、ユダは外側からの受動性によって成り立っている。どちらも受動性で成り立つキャラクターだが、阿修羅が反発を起こし、ユダが受け入れている世界は、受動態でしか世の中に受け入れられないために、真実を外側に求め、「シ」こそ真実であると直感しながらも、それに抗おうとする悲しみが彼らの存在意義なのか。

ロボットにせよ人間にせよ神にせよ存在にせよ、価値を見出したとしても彼らの悲しみを癒す手段はない。家系の狂気が存在する限り、ウルトラマンの子供がいる限り、そこに流れている血はすでに汚れている。

最近久しぶりに漫画を読んだのだけれども、少し面白かった。萩尾望都は「ポーの一族」のイメージが強く、超人が活躍する物語というイメージを抱いていたが、超人はニーチェを引き合いに出すまでもなく孤独の度合いが強いようだ。じゃまた。

タイトルの神々のプロレスというのは、昔から神様たちはギリシャ神話やローマ神話を例に出すまでもなく自分勝手にふるまっていたけれども、プロレスの場合は一定のルールに則っているので、もしかしたら勝ち負け以前のチャーミングな何かがあるのではないだろうか、と考えてつけました。平和かっ!
最後だけれども「シ」は多分「死」を指すのだろうけれども「シ」と描かれている以上「死」という概念ではないらしい。新しい概念を説明するのに「シ」を使ったのだろうが、サイエンスフィクションの論理性がオカルトによるのは何故だろうか。意匠による部分が大きいのだろうか。

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