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94%の諦観|増田セバスチャン「家系図カッター」

2017年5月16日 - Autobiography Kritique, Kritique, Literature Kritique
94%の諦観|増田セバスチャン「家系図カッター」

突然だが、この現実を二つの世界に分けて生きることは現代ではかなり困難なことである。それは内面外面など訳もなく自意識が発達してしまった人には、家と社会、自分と社会、他人と自分など、物事を状況的に分けてアンビバレンツに思考する癖がついてしまっているからだ。

社会的にはこの物語を諦観と呼ぶ。この諦観は周囲の状況に諦める思考のことで、自分の持って生まれたもので生きていこうという意志とも繋がる。

その意志を自らを家の家系図から削り取る行為をカッターと呼ぶ。このカッターとはリストカットと近く、静脈を切る代わりに、血脈を切るという行為だ。個人を生きるために社会生活を捨て去る行為だ。

増田セバスチャンという人を私はこの本で初めて知った。読んだ後、少し検索してみたら演劇の世界にいた人間が、ショップを開いた経歴らしい。その店名は「6%DOKIDOKI」という。

全く知らない人間の経歴を知っても理解は乏しい。きゃりーぱみゅぱみゅのPV「PONPONPON」の美術装飾も行っているらしい。現在の彼の活動は多岐にわたり、その中の一つがこの自伝的物語「家系図カッター」だ。

この本を読むと増田セバスチャンという人間が物事をいかに軽く考えているかがわかる。そして、彼にとってそれこそが自己表現なのである。その深刻な状況をいかに軽く、可愛くとらえるかが彼の芸術なのである。この精神を私はかつてNIRVANAの「IN UTERO」の歌詞から多く受け取ったことがある。そしてそのパンクの精神はSEX PISTOLSからとつとつと流れているインテリジェンスの乗り越えたクレバーさから来ている。punkを自己表現とした場合、知性がある人間は、早々とそこから離れていく。ジョン・ライドンがPILを結成したのも、そのためだと思う。

それはともかく。

増田セバスチャンは幼少のころから大人の自意識を持って生きてきた。つまり内面が分裂していた。社会的には子供だが、内面は大人の諦観によって成り立っていた。そのため、社会に受け入れてほしい気持ちが強く、それが自己表現にまで到達したのだろう。彼の演劇の要素は、ハプニングのような突然の出来事ではなく、クレバーさによって成り立っている計算された行為だった。その計算高さが、彼の芸術を数値化することになる。つまり彼は、イノセントな歪みを持った表現者ではなく、社会的に契約した人間なのだ。

アウトサイドが彼の内面を作った。そして彼は自らのアウトサイドを社会に適応させようとした。その行為は、多くの増田チルドレンが彼の身近で、個人のアウトサイドを社会化するようになった。それはハプニングではなく、計算されたグロテスクな行為であり、彼の多くのフォロワーはそのグロテスクな意匠を無意識に行うことを躊躇することが無くなった。

現代日本において家という概念はすでに喪失されるものではなく、すでに内面に育つものになってしまった。そのグロテスクささえも人が成長するための一助として扱われるようになってしまった。当たり前の幸せや、孤独と心を分け合うことが出来ないことはすでに悲しみから遠く離れてしまっている。その誰もが思う、経験からくる諦観ではなく、悲しみが存在することを、受け入れることが、彼の諦観なのではないだろうか。

ちなみに題名の「94%の諦観」とは、増田セバスチャン氏の店の名前の「6%DOKIDOKI」から来ている。6%DOKIDOKIならば94%は諦観なのだろう。しかしまだ人生で開けられていない宝箱がある。その中にはもしかしたら何も入っていなくて空っぽなのかもしれない。だけれども6%でもそのようなDOKIDOKIする気持ちがあるのならば、もしかしたら人生には価値があるのではないだろうか。いつか、その価値に名前が付けられる時が来る時があるのだろうか。今の所、私はそれを空洞と呼びたい。

じゃまた。


増田セバスチャンと言えばきゃりーぱみゅぱみゅなのできゃりーぱみゅぱみゅのイラストを載せる。

きゃりーぱみゅぱみゅの怖い感じと可愛い感じをイメージして描いてみた。

 

 

 

 

 

 

それから、下の動画はゆらゆら帝国の「空洞です」と小泉今日子の「空洞です」のカバーです。とりあえずの空洞です。

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