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嘘じゃない本音|壇蜜「壇蜜日記」

2017年5月18日 - Diary Kritique, Kritique, Literature Kritique
嘘じゃない本音|壇蜜「壇蜜日記」

人生において、人が自分をさらけ出す瞬間は何度あるだろうか。人生の道端で身ぐるみはがされて、それが恥ずかしいとも思わず、まるで当たり前のようにその後も人生が続く瞬間。さげすまされることに快楽を覚えることを、人はそのスタイルを性癖となぞらえてマゾヒストと呼ぶ。

そして、マゾヒズムには、もともと性的志向だけではなく、文学性を伴った表現として成り立っている。かつてマゾッホというドイツの小説家が「毛皮を着たヴィーナス」という小説を描き、この小説の登場人物のキャラクターから被虐性によって快楽を得られる性向を持つ人物のことを作者の名まえになぞらえてマゾヒストと呼ぶようになった。

私が壇蜜さんの名まえを知ったのはいつだったかは覚えていない。休みの日にTVを見ていると、あまり見たことのない女性がひな壇に座っていて、「壇蜜」という芸名で登場していた。ただその時、壇蜜さんがどのような人物かは知らずに過ごしていた。

その後、壇蜜さんの出演する番組が増えていき、TVでも頻繁に見かけるようになった。彼女の話の内容を聞いていると、彼女の持つ外面と内面の落差を感じた。ありていに言うと、彼女の経歴、姿かたちと話している内容が一致しすぎているのだ。しかし、その一致しすぎているのが一切変な感じがしない。彼女はその形をほとんど装わずに行っているのだ。つまり自然な形で装っていると感じるのだ。

そこで、少々彼女の経歴について、話をしてみたい。といっても私は壇蜜が嘗てどのような人物だったかについては興味がない。私が興味があるのは、何故自然な形で装うことが出来るのか、についてだ。そこで今回は「壇蜜日記」の内容に沿って壇蜜さんはいったいどういう人物なのかを読み解いていきたい。もちろん、私自身すでに知ってしまっている情報はあるので、その部分は勘案してほしい。

まず、タイトルの「壇蜜日記」についてだが、名前+日記はこの世には結構多い。日本の古典文学に「和泉式部日記」や、「源氏物語」で有名な紫式部の書いたタイトルそのままの「紫式部日記」。「壇蜜日記」もその系譜のタイトルなのだろう、きっと。そういえば壇蜜という芸名も「陰陽師」で有名は安倍晴明の「蜜虫」を連想するのは私だけだろうか。この「蜜虫」の場合は、安倍晴明の呪によって虫が人型をしているという設定である。

つまり「蜜≒女性の形+虫≒もともとの形骸」という構造が名前の由来のはずなので、壇蜜の場合は

「壇≒もともとの形骸+蜜≒女性の形」と読み解けると思う。

蜜自体は女性のヒトガタ(入れ物)を指すので同じ意味になるが、それぞれの+αの「虫」と「壇」は何を意味するのだろうか。

「虫」はきっと虫なのだろう。昆虫、つまり安倍晴明の庭にいる虫の一匹に呪をかけて女性のヒトガタを与えた結果、蜜虫という形になったはずだ。つまりもともとの形は虫なのだ。びっくりである。

じゃ、「壇」というものはなんだろうか。壇とは土で作られたものを指す言葉らしい。うまくとらえられないが、その土で作られたものに女性のヒトガタを与えて作られたものが壇蜜さんであるらしい。二度目のびっくりである。もしかして壇蜜さんはゴーレムなのか。

*ちなみにゴーレムを知らない人がいるかもしれないので、簡単に説明するとゴーレムとは想像上の生き物で、主の命令にだけ忠実に動く土でできたロボットのようなものである。頭に「emeth(真理)」の言葉が書いてあり、この言葉の一部のeを削り「meth(死んだ)」にすると元の土くれに戻るらしい。

この部分で理解できるのは、壇蜜さんはとてもオカルトが好きなんじゃないかということだ。このオカルトというものは例えば、この日記中にも結構出てくるが、雨女や雨男などとも関係する。それはいわゆるその日の天気で一日の吉兆を考えていた中世時代から連綿と続く感性とのつながりもあるのではないだろうか。

そしてそれは人間の価値が、経済活動や社会的地位によってしか成り立たない世界で、形骸の名のもとに仕事を続ける壇蜜さんの覚悟を私は感じるのだ。人に見られたくない部分を見せることで、金銭を授与するということは所詮社会自体が一つのサーカスに過ぎないという檻の中のサルを観客を見ているけれどもサルの方が観客をもっとよく見ていた、そして実は観客の方が壇蜜という土くれでできたまがい物に見せられながら、サルの檻に捉えられているのだ。

ここまで書いて、私もすでに壇蜜という檻にとらわれている私自身を発見していた。

そこで「書を捨てよ、町へ出よう」という気分で、少し壇蜜さんの経歴を書いておく。

確かに20代のころにSMにはまっていた(「壇蜜日記」に書いてあった)という壇蜜さんは、社会常識にとらわれない自らの人生を歩んできた。よくわからないけれどもいろいろなアルバイト経験もあり、29才でグラビアモデルデビューを果たしている異例の経歴だ。その後もTVなどで活躍をして、ひな壇に座ってどこを見ているかわからない姿はプロの女性の姿そのものだと私は感じる。橋本治風に言うならばこれも貞女の生きる道の一つなのではないだろうか。

人とはかなり違った人生経験を積んできた壇蜜さんだが、彼女の特徴(というか特質?)は、生きる上で親というものの理解をほとんど得られずに生きてきたところだと思った。何故か?それは私は以前TV番組で壇蜜さんと母親の話を見ていたからだ。その時のことを思い出すと、壇蜜さんと母親との会話の中で、母親が壇蜜さんのことを「やはり理解できない。」と嘆くでもなく、素朴な疑問のような感じで口にしていたからだ。

芸能界にデビューした後、温い地獄の中をサバイブを続ける壇蜜さんだが、壇蜜さんのことに興味をもった私は「壇蜜日記」も読むことにした。かつて斎藤美奈子さんが「芸能人の出版する自叙伝こそ現代の私小説だ。」と看破したが、私も私小説を読みたい気持ちになるときは西村賢太さんや車谷長吉さんの私小説やエッセイを特に探し、それ以外には芸人やミュージシャンの日記風の小説やエッセイを本屋で探すようにしている。

芸能人の出版している本は現代でも大量に出版されているが、私は女性芸能人の日記風エッセイに手を出すことは殆どない。多分今回が初めてなのではないだろうか。じゃ、男性芸能人の日記風エッセイになら読んだことがあるかというと、それも大してない。以前読んだものでは忌野清志郎さんのエッセイや奥田民生さんのエッセイくらいではないだろうか。いままで他人の日記やエッセイを読んで何かもの思うという部分が少なかったのだ。読むなら小説を読んだり物語を読んでいたい気持ちが大きかった。しかし現在ではエッセイのフィクション性にとても心惹かれる部分がある。そこで私小説に対する興味が再燃する。女性の私小説家…。私は私小説と言えば男性というぐらいの偏見持ちのため、近代においては私小説作家は女性ではいなかったのではないかと、憶測している。しかし現代を見るとひとりいた。笙野頼子さんだ。彼女の小説のスタイルは近現代を見ても比類なき形と力を持っていて、読んでいるととても勇気づけられる。もしかしたら、もっといるかもしれない。できたら探してみます。

「壇蜜日記」に戻るが、この日記風自叙伝風プロ女性の生活と意見は、壇蜜さんが仕事をしたり生活をしたりしているときに思ったり考えたりすることを記述しているものだ。そのため、たまに何を描いているのかわからない部分が多い。しかし雰囲気で読み飛ばせる内容ではない感じをする。

そこにあるのはもしかしたら、言葉のチョイスなのかもしれない。読んでいくと「おっ」と思う内容の文章に出合う。所謂社会問題などテーマとなることもあるのだが、そこから紡ぎだされる言葉は諦観というよりも、少しづつ相手の息の根を止めようとする命のやり取りだ。

彼女は生きていることが他人を殺すことであるということを理解している。何故ならば、サバイブする人間は必ず他人を殺しているので、漫画などで誰も殺さず勝ち続けている少年漫画があるが、彼らも相手を殺すまでも行かないまでも再起不能まで陥らせているので、似たり寄ったりだ。

多分この世で一番美しいものは魂のサバイバーであり、その点で草間彌生さんの芸術は美しく感じるのだと思う。そして常に美しい第一級の作品を作り続けているたぐいまれな才能には惚れ惚れする。それと同時にそんな美しさを知る自らの審美眼に酔いしれている自分にセルフツッコミを入れながら、壇蜜さんという時代の徒花(あだばなと読む…多分)にも愛着を感じるのだ。文章がおっさん臭いので、これ以上のツッコんだ内容の文章はやめる。私は壇蜜さんの知り合いじゃないしね。草間彌生さんの知り合いでもないしね。

兎に角、知り合いでもないのに「壇蜜日記」は読んでいると元気が出るので是非読んでみてください、って進めている私は別に壇蜜さんの友人でも知り合いでもない。ただの読者、なので今度は佐藤愛子の本を読んでみますわン。佐藤愛子さんの知り合いでもないけど。

じゃまた。


最後に壇蜜さんの似顔絵を描いてみた。似顔絵というよりも、何かしら違うものが生まれた感じがする。

それは壇蜜さんという人を正確に描こうとすると、その姿を正直に書かなければならない気分に陥るからだ。というか無理だ。

でも、それは努力の結果であって、むにゃむにゃなのだ眠い。

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