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双子の目「ファントム・ミュージアム」観覧記|描かなければよかったのに日記。

2017年7月13日 - Kritique, 描かなければよかったのに日記。
双子の目「ファントム・ミュージアム」観覧記|描かなければよかったのに日記。

本日、七月九日にクイエ兄弟の「ファントム・ミュージアム」を見に行った。私は残念ながらクイエ兄弟を知らなかかった。ただ、クイエ兄弟が影響を受けたアニメーション作家のヤン・シュバンクマイエル監督は知っていた。彼の映像作品はいくつか見ていた。食欲に対する意識の高さを見ていて感じた。

クイエ兄弟の作品の特徴は双子、名付けえぬもの、目、がテーマになっている。双子はクイエ兄弟が一卵性双生児であるところに本質的なテーマがあるのだろう。芸術家で兄弟で映像作品を作っているのは『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟が有名だろう(現在は姉妹)。それ以外はコーエン兄弟も有名だ。

芸術家の場合で兄弟が作家の本質的なテーマになっている人は私の知る限りではサルバドール・ダリ、エイフェックス・ツインの両者ぐらいだ。彼らの特徴はあらかじめ双子や兄弟であることが失われていることがテーマになっている。

今回はクイエ兄弟の目について考えてみたので、そのことを書いてみる。

カフカの『変身』を映像化したものを見たのだが、カフカの特徴はやはり家なのだろう。いくつもの夢を見た後に名付けるのが難しい何か(日本語の翻訳では【毒蟲】と訳されているものが多い)になってしまった小役人グレゴ―ル・ザムザの遅い自殺を描いた作品である。

映像で見た時に、かつて『変身』を読んだとき、殆ど事件らしい事件が起こらないザムザの日常と家族の関係性に恐ろしさを感じていた。死に対する懸念が映像から深く感じられ、かつて宮沢賢治の詩を読んだ時に感じた明るい絶望を感じるのだ。血を吹き出しながら薄ら笑いを浮かべながら「だめでせう」と呟く感じだ。

林檎が体に埋め込まれて少しづつ体が腐っていく感じ。そしてそれを止める者が誰もいない感じ。誰にも必要とされながら生きなければならない感じ。

その感覚は、「名付けるのが難しい」感覚だ。人間のクオリティとは、人に必要とされるから生まれる。カフカは誰にも必要とされない存在から、文学を生み出した。今多くの人がカフカの文学を知って、興味深く理解しようとするのは、現代に生きる人がどこかで、自分のことを「誰にも必要とされない存在」と捉えているからかもしれない。

この映画を見ている時、子供が泣いていた。何故なくのか。それは「嫌なことは嫌だ」という原初的な叫びだったのかもしれない。早熟な子供だった宮沢賢治は、自らの告白を詩に託した。そして最後まで書き続けたノートには「アメニモマケズ」といったタイトルで知られる詩を書き続けていた。

クイエ兄弟の作品は、私の知る中では「名付けえぬもの」に近い。自らの足を切りつける木こり。頭のない不思議の国のアリスは手鏡を持っている。その鏡にはアリスの顔が写っている、しかし実際には存在しない顔なのだ。はたして、その手鏡に映っているのは本当にアリスの顔なのだろうか、という一見ナンセンスな疑問が頭をよぎる。不幸である以前に、「あらかじめ失われてしまったもの」を映像化するとき、客観的な目と時間の経過を必要とするのだろう。

だからこそ、客観的視線は常に残酷な瞬間を切り取り、以後、それが失われることを予感させる。「未来には良いことがある」が嘘であることは自明の理だ。現在を戦うことを忘れた人間は決して未来には進むことは出来ない。

二人であることが必然であるように、クイエ兄弟の目はあらかじめ「双子の目」だったのだ。そしてあらかじめ自分以外の目をもって生きていくことの残酷さを知ることが出来るのだった。

今回はあらかじめ二人以上の視点から生まれたリアリズムの幽霊の姿を描いたクイエ兄弟の世界を見てきた。その残酷さは目を覆いたくなるほどで、カフカの『変身』を見た後、観客の二人は目を押さえていた。それは偶然の所作だろうけれども、ソファーに並んで、目を抑えている姿を見ていると、何かしら意味合いがあるのではないか、と感じる私がいるのだった。

じゃまた。

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