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日本のIF「サンシャワー展」観覧記|描かなければよかったのに日記。

2017年8月5日 - Kritique, 描かなければよかったのに日記。
日本のIF「サンシャワー展」観覧記|描かなければよかったのに日記。

六本木にある森ビルに行ってきた。そこで行われている「サンシャワー展」を見るためだ。今回は先にどのような展覧会か殆ど調べずに行った。

もしこの世にある芸術に価値をつけるのならば、道端に落ちているごみはまだ価値があると私は思う。それは現代人がモダンな暮らしを求めすぎるため、ごみが落ちていることを意識の外にしながら生活をしているということを表現しているからだ。

かつて「トマソン」を超芸術と名付けた人がいる。この世になくてもよい、あることに意味がないことにさえ、それを名付けることが出来る。この世は私が考えるよりもずっと生きやすく住みやすい世界なのかもしれない。

世迷いごとに脳内を充満させながら電車で揺られて、森ビルにたどり着いた。チケットを贖い53階までシャトル型エレベーターで一気に昇る。当然耳が詰まる感じがする。階上に上がるほど、耳が詰まる、聞こえなくなるのは現代人しか経験できない現象だろう。速さというものに価値を求めるのは当然、現代人の権利なのだ。

で、感想だが、この展覧会を見た時に「芸術」とは何か。という問いが頭をよぎった。私の知る芸術は西洋絵画や彫刻で、所謂技術があり、そのうえで工夫が生まれ自己表現の行っているものを考えていた。なのでレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが私にとっての最高の芸術家だ。日本だったら黒田清輝や高村光雲だろうか。彫刻はまだわからない。なので、今回の道端においてあるものから工夫して表現されたオブジェたちを見た時には実はあまり感動しなかった。

しかし一つ一つ気になったところを見ていくと、数字に対する細かさが気になった。また展覧されたモチーフの多さ。それからグラフィティアートのような表現における落書きなどによる表現のシンプルな反復性である。

つまり表現自体は非常に単純であり、それだけしかなかったら多分もっと退屈だっただろう。しかしその数の多さから、これだけの数の表現を行っているアーティストがいながら、その表現のシンプルさ(貧しさ)は、もしかしたら時代や空気や雰囲気といったもっと大きな何かを表現しているのではないか。

展覧会名の「サンシャワー」とは直訳すると太陽の光の雨である。英語で記述すると「SunShower」翻訳すると「天気雨」や「狐の嫁入り」となり晴天にも関わらずに雨が降っている状態を指し、気まぐれな感情を表す場合もさす。

表現矛盾が現実に存在することが非常に面白い慣用句で、例えば「泣き笑い」や「笑いながら怒る人(竹中直人)」や『陽の照りながら雨の降る(Cocco)』など芸術家やお笑い、パフォーマンスにおいてよく使われる表現だ。もっというと舞台芸術にはピエロのようにワザと失敗する役割のパフォーマンスを行う役者が存在する。

とすると森ビルという近代現代的なビルディングの53階で、東南アジアの80年代の表現を行ったのは確かに間違っている。となりで「ジャンプ展」を行っているのが間違っているかどうかは知らないが、アートの展覧会と思って入ったら異界に入り込んでしまった気まずさを感じた。

私はこの異界の中をいくつもの入り口を入り、部屋の中をさまよい歩き、展覧物を眺めたりしながら、「もしかしたらここは経済成長をしなかった日本の姿なのではないだろか」と言った言葉があまたをよぎった。

日本は敗戦後、アメリカの属国の立場にあった。そして唯一日本がアメリカと戦うすべは経済的に成長することだった。つまり敗戦によってもたらされた貧しさをいかに脱却するかが、戦後日本のテーマだったのだ。そして、日本は経済活動によってアメリカと同等のレベルまで追いついた。むしろそれを追い越そうとするほどの技術と経済基盤を手に入れた。つまり日本及び日本人は経済的に豊かになったのだ。

そして80年代にバブルという価値のないものに価値を与える行為が日本で流行して、さらに経済活動に拍車がかかる。ここでお金を儲けること自体が価値を持つことになり、見栄が日本人にとって大きな価値を持つことになる。いや、見栄がいかに日本人にとって重要なことなのかに気付いたのだ。

しかし見栄を金銭で贖うことしか、金銭に価値があると思いこんだ日本人たちには理解できなかった。人より良いものを食べ、良い服を着て、良い車に乗る。高い宝石を女性に送る。高いビルの家賃の高い部屋に住み、広いベッドで眠る。それらは全て金銭で贖うことが出来ることで、もし日本人が快適な生活を送るのならば、これだけの稼ぎが必要なのだ。

そして、それらの生活を手に入れたとしても、人は自分を人より優れた人間であることを伝えることを辞めない。いかに優れているか、そして相手がいかに劣っているかを伝えることを辞めない。80年代の終焉後、足ることを辞めた日本人はクオリティの高い生活から、コミュニケーションの価値へと拠り所を変えていく。

つまり価値の多様性により、ハイクオリティの価値だけが絶対の価値であるといった物語に対する疑念が生まれたのだ。これは日本において男性的物語の終焉へとつながった。その男性的物語は現在、新たな階級制度を求めて、「いじめ」「スクールカースト」「セクシャルハラスメント」「モラルハラスメント」「パワーハラスメント」といった新たな問題をインテリジェンスの名のもとに作り出してる。物語を構造化することで、問題点が発生するのだ。

だとすれば構造が存在するということは、そこに新たな物語が生まれる可能性があるということで、その問題点をいかに解決するか、といった思考実験も存在するのだ。しかし、これ自体が一つの大きな間違いだろう。

何故なら、そのような問題はまだ、起きていないからだ。少なくとも物語が構造化することは、長い時間がかかる。また問題を解決するのにも時間がかかる。つまり、人間は土地によって存在し、また法も土地によって生まれるので、法を乗り越えることは土地を否定することになってしまうのだ。

日本の中では法というものを考えている人はどれだけいるだろうか。法律を尊ぶというのならば、日本人の多くは何らかの形で戦うことを放棄している。それは戦後日本がアメリカに対して「平和であること」を約束したからだ。現代の教育の現場で、空気を読みましょう、と教師たちが生徒に教え、そこからはみ出る生徒をその他の生徒が排除するのは、「平和であること」をまず知る必要があると現在の日本が考えているからだ。

しかし「平和」なのはただ、戦争によって人が死んでいないだけでしかない。

今回「サンシャワー展」を見てきて、思ったのは、東南アジアの貧しさとそこから産まれる芸術を、今の私たちには殆ど理解できないということだ。そこはまさしく異界であり、「ディズニーランド」や「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」などのアトラクションと大して差はないのではないか。あるか。バイ・マイセルフ・ツッコミ。

だけれども、もし日本が戦後、経済的に成功しなかったならば、このような風景を私も日常的に見ていたのかもしれない、と思わずにはいられなかった。そしてこのような風景を見ていたとして、私は自分を不幸だと考えただろうか。「正しい」教育を受けずに、金銭的に余裕のない生活を送り、海外の文化と触れる機会も少なく、ビルディングなどのモダンな建造物も現在の日本と比べたら少なく、経済や文化の格差が現在の日本より格段に高い。

豊かであるからこそ見えないものもあるのだ。公園にしか存在しない人物や、誰が拾うか知れない地下鉄のゴミ、それらが存在しなくなることが現在の科学の目的の一つだろう。すべてのものはリサイクルできて、無駄というものが一切なくなる世界。

しかし、人が生きる上で無駄なものなど存在するのか。今のところ人間には無駄なものを無くすることは出来ていない。しかし無駄という概念こそ、近代の生み出した合理的思想の生み出したカスであり、そのカスを出さずに合理的思想は現在のところ人間にはできない。歴史を否定できないからこそ、人間は自らの人生を歩み続ける。そして。

今回の展覧会はちょっと奇妙な体験だった。しかし時間をかけて行くだけの価値はあったと思う。部屋の中でいるだけでは出来ない体験だった。

余談だが、私は通り雨を見たことがある。道を歩いていると、突然進行方向の地面の色が変わったのだ。コンクリートの灰色が黒く染まっていく。それがすごい速さで近づいてくる。私は雨であることに気付いて、雨からよけるための庇をさがした。しかし、見つけたその庇はすでに雨の中だった。

瞬間的に進行方向を変えて雨から逃げた。しかしその行為は無駄であり、すぐに追いつかれた。私は急いで雨の中を庇まで走り出したのだった。

ちなみにタイトルの「日本のIF」はそのまま「もしも日本が…」といったタイトルだが、「未来のイヴ」という小説から、イントネーションは拝借している。タイトルはあくまで「引き」要素だし、何らかの形で面白がってほしいと私は思っているのだ。これを辞めたら「○○○○○○○○殺人事件」は全部誰かの書いた「○○○○○○○○殺人事件」のパクリになってしまう。もちろん著作権上はパクリじゃないけど。


ところで、イラストは沖縄県出身のシンガーソングライターのCoccoにしてみた。以前TVでインタビューを受けている時に、自身の生活のことを話していた。携帯電話を持っていないという話をしていた。いるかもしれない、と思いながら見ていたが、炊飯器を最近買ったという言葉にはびっくりした。

このような話を聞くと「ま、持ってなくても生きていけるからね」ということを言う人が私の脳内にいる。なんとなく理解者みたいな言葉だ。しかし私は誰もが持っているものを持たない状態で生きていけるほど人は強くはないと思う。文化の話をするならばCoccoの知性の高さは詩を読めば、誰でも(読解力がある人ならば)理解できる。

しかし、その知性を乗り越える感情や心の強さがCoccoにはあるのではないだろうか。何故かCoccoの話になってしまった。

じゃまた。

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