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嘘の講談者|森達也「FAKE」

2017年8月27日 - Kritique, Movie Kritique
嘘の講談者|森達也「FAKE」

さて、皆さんは「佐村河内事件」をご存じだろうか。聴覚障害をもった作曲家の佐村河内守氏に実はゴーストライターがいたという話だ。よく考えたら聴覚障碍者なので影の作曲家がいてもおかしくない。もっと言えばプロデューサーぐらいはいてもおかしくはないはずだ。

じゃこの「佐村河内事件」の何が問題なのだろうか。それは聴覚障碍者の佐村河内守氏のセルフプロデュースに関してだった。彼は聴覚障碍者だが作曲もこなす苦悩する天才音楽家のスタイルで、音楽家活動をしていたのだ。

たしかに「実は、天才じゃなくてゴーストライターがいました。てへぺろ。天才じゃなくてごめんなさい。」とか言われたら、滅茶苦茶腹立つだろう。なんとなく嘘つかれた感じがするし、いろいろ言いたいことも出てくる。

多分話的にはこれだけだったはず。しかし「FAKE」がテーマとしているのは、なんとなく誠実そうな新垣氏が、会見をしたときに「佐村河内守さんは聴覚障碍者ではない」と発言したことである。新垣氏は少なくとも「聴覚障害とは感じなかった」らしい。

非常に悪いタイミングで「佐村河内守氏は本当に聴覚障碍者か」といった内容の記事が次々と発表された。これは障害というものの本質を多くの人がどれだけ理解していないかを知ることが出来る出来事だった。

以前も書いたが、障害があるということは以前と同じことが出来なくなるということである。それは他の人が普通に同じように聞いたり見たりすることが、出来ないということだ。その違いが「障害」という言葉でひとくくりされているので、行ってしまえば目が悪くなれば眼鏡をかけるのと大した違いはないのだ。目が見えずらい人でも感が良い人であれば、眼鏡をかけないまま生活をする人もいるだろうし。

今回の話の場合は、「佐村河内氏が、自身のプロデュースにおいて障害者を感動のダシにした」といったことも書かれているが、それも私からしたら現在の佐村河内叩きをするマスコミが何故、そのような記事をかけるのか、と正直感じる。

佐村河内氏が自身の音楽を作るために設計図を作り、新垣隆氏が作曲した。もちろん佐村河内氏は聴覚障害があるため、新垣氏の作曲した楽曲の本当の姿を知ることは出来ない。すくなくとも新垣氏が意図した作曲を知ることは出来ないだろう。

この点でも「本当は作曲をしていなかった」といったことになるが、この部分は佐村河内氏はプロデューサー兼フロントマンであり、新垣氏が唯一の影のサポートメンバーでありバックバンドであったで別に問題がないと思う。よくある話で、作詞作曲編曲歌全部をやっていますと公言しているミュージシャンが実は、口パクだったという話もどこかにはあるだろう。

ということはそのミュージシャンは顔がとても良いのだろう。だが、その位顔が良ければ、むしろ面白いプロデュース方法だと私は思うのだがどうだろうか。

なので、この「佐村河内事件」は実はたいしたことのない事件だと私は思う。むしろ芸人が障碍者をTVで大っぴらに蔑む芸が横行した方が実はヤバいと思う。これは障碍者だから気を使うとか使わない方が良いとかではなく、社会的弱者をあざ笑うこと自体に対して、何の疑いも持たずに行える状況を作り出したのがヤバいのだ。

じゃ、障碍者は周囲にもっと気を使って生きろということなのだろうか。TV及び大手のマスコミからネットなどの小規模の個人のマスコミまでが、障碍者が自己表現を自由に行うことに否定的なのは何故だろうか。

それは佐村河内氏が何故音楽家ではないか、の部分で説明が出来るだろう。佐村河内氏は聴覚障碍者である。ゆえに一般人とは音楽の聞こえ方が違う。そのため音楽の勉強についても、健常者より時間がかかる(と思われている)。また健常者よりも秀でた才能が必要である(と思われている)。

後半のものは実は人間の心理的な部分の解釈でしかない。それは音楽を知らない人間からしたら、健常者よりも障碍者の方が、能力が低いとみなされているからだ。しかし実は健常者でも能力の低い人間はいるし、障碍者でも能力の高い人間は存在する。

佐村河内氏は聴覚障害の為、実は音楽家ではなかったのではないか、と社会的に思われた。その結果、その根拠となる理由をTVが報道し始めたのだ。楽器が弾けない。楽譜が読めない。基本的な音楽の勉強をしていない。しかし、音楽家でもこのような人はいるだろう。バンドをしている人でプロとして活躍している人でも上記のことが当てはまる人はいる。

なので、やはりみな、佐村河内氏の苦悩する天才風の雰囲気に嘘くささを感じていたのだろう。しかし、それは佐村河内氏の一種のダンディズムというものだろう。それよりも新垣氏は音楽家としては、本物の音楽家であり、音楽を生業としている人間である。その人間の片手間の仕事の一つに、佐村河内氏の作曲があったのだ。

聴覚障害があり、楽器も弾けなくて、基本的な音楽の勉強もしていないド素人が、依頼してきたものだし、片手間での仕事だったのだ。しかし、佐村河内氏が売れて、多くの人に知られるようになってきた。聴覚障害のある苦悩する天才として、振舞うようになっていた。TVでも頻繁に取り上げられるようになった。

このタイミングで新垣氏が、ゴーストライターであることを発表したのは、やはり、売れたかったのだろう。大学での収入は大したことが無い。もし自分がゴーストライターであることを言えば、世間は自分の言葉に耳を傾けるだろう。

本物(職業)の音楽家である自分の言葉に。

ここまで考えていたかどうかは知らないが、新垣氏の起こした騒動は、新垣氏にうまく働いた。その結果、新垣氏はメディアでの有名人になった。本業の音楽活動については知らないが、多分自分の音楽活動を行えるぐらいに収入は得られたのではないだろうか。あくまで想像です。

この「FAKE」という映画における「偽物」とは佐村河内氏のことを指すのだろうか、それとも聴覚障害が実は嘘だということなのだろうか。それとも新垣氏の誠実な雰囲気が実は嘘で、実は計算高い人物ということなのだろうか。

そうではなくて、実はこれらのイメージ全体が実は虚実なのではないか、という意味での「FAKE」なのだ。何故なら私は佐村河内氏と新垣氏のどちらとも会ったことが無いのだ。TVの向こう側で、多くの人に自分をアピールしている姿しか見たことが無いのだ。

みんな、佐村河内氏の「偽物」の苦悩する天才(実は楽器が弾けない)を嫌い、「本物」の音楽家(一流のピアニストでもある)である新垣氏の誠実な態度に好感をもったのだった。

タイトルの「嘘の講談者」というのは、佐村河内氏のことを指していて、「FAKE」を見た限りだが、彼は非常に嘘が下手な方だと私は感じた。だからこそ、苦悩する天才風の姿にうさん臭さが感じられたのだろう。自分自身の聴覚障害があることに関しても、非常に説明下手であると感じた。もし、もっと嘘がうまければ、これほどの大ごとにはならなかったのではないか。

しかしこの騒動を楽しんでしまった私も存在するのは否めない。だからこその「嘘の講談者」なのだ。講談のやり方において、佐村河内氏が本当のことや本気で感じていることを言えば言う程、そこには何処か嘘くささが生まれるのだ。

しかし本当の嘘は、新垣氏の裏切りにあると私は思う。もし新垣氏があのような告白をしなければ、佐村河内氏は、障害を持ちながらももっと自由に自己表現をすることが、出来たのではないだろうか。新垣氏には佐村河内氏は羽蟻のような単なる蟲にしか感じられなかっただろうけれども。

じゃまた。

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