メニュー

過去の記憶は隕石衝突の夢を見るか?|新海誠「君の名は。」

2017年8月30日 - Kritique, Movie Kritique
過去の記憶は隕石衝突の夢を見るか?|新海誠「君の名は。」

新海誠の「君の名は。」を見た。初めのセリフの「朝、目が覚めると泣いている」を聞いて「やばいな…」と感じた。「世界の中心で、愛をさけぶ」まんまじゃん。もしかして、その系の映画なのか。この映画は確かゴヤ賞を受賞しているはず。それなりに面白いはずだ。しかしよく考えたら今まで私は新海誠を見て、素直に面白いと思ったことが無い。

ならばなぜ見ているのか。やはり私も少々微熱気味で流行り病に罹っているのか。

一応続きを見ていこう。二人が突然入れ替わっているため、男女が入れ替わっているのだ。よく考えたら入れ替わることはないので、脳髄だけ入れ替わっているのだろうか。ふつうあり得ない。もしあったとしたら、脳みそが体になじむまで大変なことになる。ナチュラルに馴染むわけがない。では何が入れ替わっているのか。

脳内に流れる言葉は、記憶である。これも少々不思議だ。記憶が入れ替わる、ということは記憶が一度デリートされて、されに上書きされているということだ。この場合はどちらの記憶が正しいわけではない。では、この場合の正しさはどこに所属するのだろうか。

それは客観的な視点に所属している。と考えると、この物語は二つの世界存在する物語である。片方の物語をもう片方が補完しているのだ。ある関係性においては、正しい行為も、ある視点から見ると間違った行為として存在する。と、考えると誰にとっても正しい行為というものは存在しないのかもしれない。そして、誰にとっても間違っている行為も存在しない。ただ、社会は二人以上なければ、成り立たないため、正しさは二人以上によっていると考えらえる。

なので、見始めて数分経った時、もしかしたら主人公二人の時間は重なりながらも、ヅレているのではないか、と感じた。

この二人の奇妙な記憶障害は、時間といった客観的視点を失ったために起きたものだ。そこで時間について少し考えてみる。時間とは人間が理解できる最高の客観的視点の一つである。当たり前だが人間は一つの時間に二つの場所に居れない。そのため現実が非常に大事な意味を持ってくる。つまり時間から物事を考えれば、現実的な場所こそが重要な意味を持ってくる。

君の名は。」はその時間軸が二つ存在する物語である。正確に書くと、客観的時間が存在するが、それと同時に主観的時間が存在する世界である。そして、この「君の名は。」の世界には二つの主観的時間が存在する。一つは男性主人公の時間。もう一つは女性主人公の時間。そして主人公の主観的時間が流れている時、女性の主観的時間は止まったままだ。

二つの主観的時間軸が存在するが、基本的には主観的時間は一つである。それは男性主人公の視点である。それは男性主人公の視点の方がより客観的時間に近い流れを持っているからだ。客観的時間は一方向にしか進まない。これは重力や引力というものが互いに引き合うものである、といった概念に対立する考え方である。重力が土地に根差したものでありながら、互いに引き合う引力を描いているのに対して、主観と客観が時間軸で重なるときは、そこに行われる記憶自体が、常に上書きされてしまうからだ。そこにあるのは正しさである。

と考えると、どちらかがの時間がどちらかの記憶を上書きしていることになる。上書きされるのは止まった時間の方である。何故なら時間が停止している場合、そこに意思を確認するのが難しくなるからだ。現実的な行為しか存在せずに、人間の心が失われていくのだ。そして、「君の名は。」の場合は時間が停止しているのは女性主人公の方である。

その磁場の時間が停止しているため、繰り返される時間が継続している。そしてその記憶が繰り返されるのは男性主人公の視点によってなのだ。そして、男性主人公に少しづつ客観的視点が入り込んでくるために、この場合は隕石衝突によって崩壊する糸守町の世界の時間が、男性主人公の主観的時間軸に流れ込んでくるのである。

隕石が落ちるのを止めることは人にはできない。すでに起こってしまったことは変えることが出来ないからだ。そのため主観的記憶として、なんども同じ時間が繰り返される。この繰り返される時間が「君の名は。」のテーマなのだが、そもそもタイトルの「君の名は。」は戦後に発表された映画「君の名は」からきている。多分…。

1952年にTVで放映された「君の名は」は、戦争の記憶と男女のすれ違いを描いた作品である。特に前半は第二次世界大戦中の戦争を舞台にしている。そして、この映画は後半に男女のすれ違いが頻繁に起きているが、なぜ起きるのかの説明がない、または足りない。もしかしたら説明できる人がいるかもしれない。

ただ、この物語の影響は非常に大きいために、すれ違い自体をテーマにした作品が多く誕生することになった。

閑話休題。

君の名は。」の方は主人公の中にある無意識の記憶をテーマにしているが、これ映画を見た時日本人ならば福島の大震災を思い出すのではないだろうか。このやり方は私の文章作成法としては邪道である。何故なら私は福島の大震災を体験していないからだ。そして、体験した人の大半はこの世にはもう、存在しない。現在存在している人々は、その震災の中で生きて、今も生活している人たちである。彼らは周囲の人間の死を体験している。この映画の中に私たちは、失われるもの≒忘れえぬものとして、震災の中で奮闘している人たちの姿を手前勝手にオーバーラップさせていた。

君の名は。」の中では災害が起こるという事実を知る人たちが、自分たちの土地をまもろうと行動することになる。そのやり方は無様であり、映像としてはジュブナイル風の雰囲気が強くなっている。これらの行為は、瞬間的な死から、人為的な死、つまり障害を作ることによって、その記憶の中にいる人間を生かそうとしている。

しかし、そこにはさらに、大きな嘘が生じている。それはファンタジーの嘘だ。ファンタジーにおける嘘とは、時間ではなく、視点自体が客観的な存在であることだ。つまり視点自体が客観的な存在であるならば、もう一つの可能性である視点が主観的な存在である可能性が生じてくる。

主人公の視点がつまり、客観的時間軸の中では、主観的視点として機能している。ではこの場合の時間とは何を指しているのか。多分これは主観が甘受する運命に近い。そして男性主人公の主観的視点が、客観的視点に変換されることにより、災害を受けた土地が客観的時間、つまり主人公の視点に支配されるということになる。

そして土地はそこで行われる運命を受け入れることで、主観的時間を取り戻すことになる。つまり土地とそこに根差した、女性主人公の主観的時間と蘇るのだ。ただ、そこで行われる死は、運命であり、運命は享受すること以外に、人が生きる道はない。

またここで記憶の変換というテーマが生じてくる。男性女性両主人公がお互いの名前を喪失してしまうという現象だ。互いに主観的視点を取り戻したために、名前が重要な意味を持ってくる。もともと、名前が重要な価値を持ってくるのは、生まれただけでは人間は名付けられることが無いからだ。名前を知るということは、その存在が生まれてきたことを祝福するということであり、その生命に敬意を払うということに繋がるからだ。

「忘れるということは、幸いなことだ。」と文学なら言うだろう。それが文学の価値であり、喪失は近代文学において、祝福とはなりえないものだからだ。小川洋子は「密やかな結晶」のなかで、喪失をテーマにして、そこにある種の幸福感を描いている。そこにあるのは三崎亜紀の「となり町戦争」のような「見えない戦争」と、それを知らないことと重なるのではないか。

つまり、文学は、喪失することの価値を描いている。そこにはあるのは邪悪なものや嫌悪するべきもの、唾棄すべきものからいかに自分自身を守るかをテーマにしている。文学が喪失を一種の幸福へと結びつけるのは、文学自体が戦争から、何らかの形で自意識を守るために闘争を続けていたからだ。其の闘争は価値を持ちえないと言いえるのは、戦争自体が単なる行為でしかなく、経済活動とともに、自分の命を殺す行為に過ぎないからだ。

つまり戦争を経験していないからこそ、その行為を否定することが可能である。ならば、その行為によって、人の価値が下落していき、人間らしさを奪うという認識しか出来ないのならば、人は戦争の意味や価値を考える必要はない。戦争をする必要もない。

だからこそ、「君の名は。」は自然災害(隕石落下)とそれに伴う人命の喪失を主題の一つに選んだのである。それは、隕石落下が一切の人災から遠く離れた、何億光年も遠く離れたものだからだ。

また、人間が抱える「幸福」への欠乏というものは、その人間が幸福であることを、幸福であったことを忘れていないということだ。それは記憶が人間にとって過ぎ去るものであるのと同時に世界を見つめることと繋がるからである。記憶の季節が存在するということは思考が存在することで、それが事実としてつながるのは、思考すること自体が間違いであると、気付くからだ。現実が常に正しく、現実は正義とは程遠い。正義が意味を持つときはその行為が魂をつかさどるからだ。

奇妙なことだが、自分の行為が何かを名付ける行為に繋がるのならば、それこそが人間の価値なのである。

余談だが「君の名は。」をレンタルするときに、一人の女性が「私はこの映画を7回見た。」と言っていた。その言葉が耳に入ってきたのは、この映画はいわゆる流行りの映画なので、人によっては周囲に合わせて何度も見ることになったのではないだろうか、ということをイメージしたからだった。

むしろこのような映画ならばそのようなみられ方の方が良いのかもしれない。新海誠の物語からは福島の震災の記憶から、ジュブナイルなイノセントなニュアンスまで、初恋とその不可能性における障害の形を描いているようだ。このような世界と文学は存在するのだろうか。存在する。それは、人間が忘れてしまって今では思い出すこともできない過去の記憶なのだけれども。

大事なのは、知るためにはそれをもう一度経験をする必要がないということだ。この映画は多くの人が生きる上で経験するかもしれない沢山の喜びとちょっとした悲しみを描いた映画である。だからこそ繰り返し、名前を知ろうとするのだ。偶然なる祝福としての君の名を。

ところで、タイトルについてだが、当然「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」のモジりである。この「○○は○○の夢を見るか?」のタイトルのつけ方は真似しやすく、このタイトルを付けた訳者は優秀だと、私は思う。ただ、色々な真似され過ぎて、もともとのタイトルが持っていたポエジーが失われているように感じる。

もし私のタイトルの真似方に疑問を感じる人がいたとしても、私自身は自分のタイトルのつけ方にそれなりにポエジーを感じているため、あえて無視したい。

じゃまた。

タグ:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です