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完結されない殺人|沢木耕太郎「テロルの決算」

2017年9月1日 - Kritique, Literature Kritique, Nonfiction Kritique
完結されない殺人|沢木耕太郎「テロルの決算」

決算とは総仕上げのことであり、一つの時代との決別を意味する。年末に稼ぎの決算をするようにテロルに関する決算もしなければならない、と沢木耕太郎が考えたかどうかは知らない。

しかしタイトルからすると「テロルの決算」はテロルの総仕上げをこの本で行っているのだ。
では、どのような決算をすることが必要だろうか。テロリズムの決算とは、つまり最高の自己完結である。
人が人を殺すというのはどの様なことか、と考えた果てに生まれる行為がテロルであり、殺人である。
最近文学や小説では中村文則などの若い作家が殺人をテーマに小説を書いている。倫理性を求めたり精神分析を取り入れたりしているが、人殺しの内面を言語化するという行為は小説家にとってはスリリングなことなのだろう。
一昔前は、ドストエフスキーが「罪と罰」や「悪霊」で殺人とテロルをテーマに小説を書いていた。
ドストエフスキーの小説のテーマは「キリスト教をいかに信ずるか」をテーマの殆どに割いているため、ゴーゴリやチェーホフのように社会的心理的問題をテーマにして描いていも、論理性を尊ぶものへの親近性が生じる。
また、チェーホフの喜劇性の面白さは実は諦観によって成り立っているため、人殺しがほとんど行われない。その中でも特徴なのが「かもめ」「ねむい」などの作品である。これらの作品は無意識に死を選ぶことについて描いている。つまり自殺をテーマにしている。
村上春樹が自らの小説(「1Q84」)の中でチェーホフの作品(サハリン島)に言及したのは、チェーホフの小説や戯曲が諦観をいかに描くかによる事で行われる喜劇を描きながら、実は悲劇性が強くにじむような表現が強く生じているからだろう。
このような悲劇と喜劇がごっちゃになった作品を他の古典作品に求めるとするならば、シェークスピアの「ヴェニスの商人」がある。この物語中の登場人物の金貸しのシャイロックは、喜劇的人物と評価されることが多かったが、現代では悲劇的人物ととらえるのが自然になってきた。
シャイロックの話している内容は資本主義にのっとった大人の考えで、子供たちの倫理性による戯れにちょっと遊んであげたといった感じである。この戯曲の特徴はシャイロックの敵となる青年たちが殆ど負け戦と知りながら行動を起こしていることだ。そのため物語がシャイロックの敗北で終わるときにまるで正義は勝つ、だの言った嘘寒い雰囲気が醸し出されることになる。
しかし現実には9割負ける戦であるならば、すでに負けているのである。しかし「ヴェニスの商人」ではシャイロックが負けているのである。この部分において戯曲には既にリアリティが失われており、シャイロック自体にキャラクターを成り立たせる言動行動に矛盾が生じている。そのせいで、まるで負けるべくして負けたように読者は幻惑されるのだった。
この現象を幻惑と捉えるには、物事には価値観が存在するということを思考することだと、私は思う。
そして、今回の物語に教訓があるとすれば、大人と子供は価値観と経験が違うということだ。
大人は経験で話す。それは経験が間違った考えだとしても、社会においては経験が価値があるということを知っているからだ。
社会とは基本的に演技の世界である。その演技とはパフォーマンスのことで、このコストを掛ければかけるほどその人物に価値が生じる。
奇妙なことだが、社会においては金を持っていること自体が大きな価値を持ち、人間の存在というものが生まれによって大きく左右することを理解することが大人になることだ。
しかし、子供は自分の内面を尊重する。それは大人の経験思考を否定することだ。
経験が少ないために、子供はいくらでも大人の経験を否定できる。

だが、大人でも大人の思考は否定できる。
それが「殺人」である。

ここまでが、私なりの「テロルの決算」の前書きである。
テロルとは大人であろうとも子供であろうとも自らの思考の純度を上げて行われる行為である。そのため「普通の殺人」とは区別される。
つまり、テロリズムという思想の本質が純粋思考であることは明確である。
その為、私はこの「純粋思考」といったものにうさん臭さを感じるのだ。

その理由は、私には「純粋思考」自体が、若い人間にとっての「はやり病」の一種としか感じられないからだ。

昔の歌謡曲より現在の流行歌を聴くことがより時代に即した意見に聞こえるのは、現代に生きる多くの人にとって耳になじみやすいからだ。ポップミュージックは皆の耳に馴染むからこそ売れるのであり、それが時代を代表する一つの価値になる。

私はこのブログであまり現代的ではない作家を取り上げている。ギュンター・グラスとか色川武大とか、オルタネイティブな作家が多い。もっというと現代でははやらない作家が殆どだ。

読書をする人ならば、これらの作家の名前を知っている人が殆どだろう。しかし流行らない。何故なら彼らの表現はアウトサイダーながら物事の本質を描いた作品が多いからだ。

文学における芸術表現の恐ろしさを感じるのは、読書では経験できない経験がこれらの作家の作品には書いてあるからだ。

さて、「テロルの決算」は山口二矢(やまぐちおとや)という右翼の少年のテロリズムの青春を描いた作品である。事件があったのは1960年。今から約57年前の話である。

私はこの話を読んで最近の事件、相模原の連続殺人を思い出した。あの殺人も現代のテロリズムと非常に近いように感じる。
それは英雄思想との関係が非常に強いからだ。
英雄思想とは俗にいうとヒットラー遺伝思想又はラスコリニコフ遺伝思想という。因みに後者は今、私が名付けた。
これらの思想の特徴は、乗り越えるべき壁が存在するということだ。
この壁という概念をどのようにとらえるかは人それぞれだが、戦争が終わった後、実存という概念が流行った。この思想は現代でも一部のインテリの間では有効に働いている。
この概念の意味とは、現実、または心理的に「壁」という概念を作り、それをどのように乗り越えるかを人生のテーマとする方法論である。
いわゆる、自己啓発概念を実際に行動として成り立たせる考え方である。
ただ、英雄思想と実存の違いは、英雄思想が妄想によって成り立っているところだ。
英雄思想はまず、自らが英雄であること自体の必然性によって成り立っている。
そのため、英雄ではない自己に耐えられなくなってしまうのだ。
つまり、英雄思想において、行動は自己を英雄としてみなす行為としてしか成り立たない。

そして、この場合の行動は殆ど反社会的行為になる。
このことは、上記のヒットラー及びラスコリニコフ遺伝思想の成り立ちも殺人であることで明白だろう。
殺人とは反社会的行為である。なので戦争も反社会的行為である。じゃ、何故戦争は成り立つのか。
戦争はその行為によって、新しい経済活動が成り立つからだ。そしてそれは歴史が実証している。
しかし、以前も書いたが歴史≒経験として成り立つ。そして経験からくる思考は間違いである可能性が高い。
ファシズムの思想は支配思想であり、人間が自由であることこそが実存となりうる。
この思考において、殺人とは相手を自らの支配において行える最大の行為と捉えられる。
では、現代の社会は支配によっては成り立っていないのか。成り立っている。
つまりファシズム自体は思想としては間違っていない。支配は行われているからだ。
では殺人のどこがいけないのか。その行為が反社会性を育てるからだろうか。
しかし、殺人が反社会性となりうるのは、その行為が個人の妄想がよって生まれているからだ。

現実に即しない思想によって反社会性が生まれる。
ヒットラーはユダヤ人に対して大量殺戮を行った。また、ラスコリニコフは金貸しである老婆を殺害した。
私たちは彼らがそれを行った理由を一応は納得できる要素がある。
ヒットラーの場合は優性思想である。ユダヤ人が現代においてドイツ人より劣った人種であるといった思想によって、大量殺戮を行った。また、ラスコリニコフは金貸しの利息の取り方が非道であり、邪悪であるということによる。
そして、其々の思想の矛盾も知っている。
ヒットラーにはユダヤ人の血が自らにも混じっていた。ラスコリニコフは金貸しの老婆の姪も自らを守るために殺した。

私が思うに、これらの話において思想は否定されていない。人間は思想においては自由だからだ。問題は思想と行動の間で行われた矛盾である。
しかし、英雄思想の問題点は予め、自らの中に矛盾を取り込んでいるということだ。
そのため、すべての行為が現実に即していなければならない。
英雄思想において矛盾とは、妄想が入り込む場合によっている。

つまり、人間がどのように考えようとも現実に行われたことだけが真実であるということが相模原事件の真相である。
今回の相模原の事件は、犯人の思想である障碍者は悲しみしか生まないという本質的考えを伝えている。
彼は多くの障碍者を殺害することでそれを実証した。

しかし、今、彼は法によって精神障碍者とみなされつつある。
彼の行為を後付けですることで、彼の行動を矛盾した行為として見なそうとしているのだろう。
ここに私は現代の不安を感じる。
つまり、精神疾患自体の成り立ちの不安定さだ。
相模原の事件において犯人は、重度の障碍者を殺戮し、彼らの存在の不安定さを実証した。
私はその行為は正しいとは言えないと思うが、ある種の真実に根差した行為だと思う。
この行為によって、多くの人間がいかに障碍者に対して、差別的思想や行動を取ってきたかがが、実証されただろう。
しかし、より不吉な感情が私の中に生まれている。
国が大手をふって障碍者に対する差別をなくそうというのは、障碍者の人格に対する一種の侮蔑では無いだろうか。
障碍者といっても一律ではない。言ってしまえばその前に人間である。
「障碍者の差別をなくそう」と声高に叫ぶのは一般人と障碍者の溝をより大きくしているだけだと私は思う。

本当に生活保護はいけないのか、障害年金を貰うことはまずいことなのか。自らの人生を自分で切り開くことだけが素晴らしいことなのか。
私はそうは思わない。
人間に価値があるとすれば、それは生きることを選んだ時だと私は思う。
私自身も生きる意志を見出そうとすることに敬意を表したい。

そして、テロルが真に決算されるときがあるとすれば、人間の行為全てに敬意を表することではないはずだ。

殺人という具体的な邪悪な行為は言動の中から生まれてくる。なので、もし自分の行為で誰かが死んだとすれば、すでに殺人は行われているのだ。

殺人は常に行われている。そしてそれには、どのような理由を付けようとも邪悪なことであり、経済活動の一環として行なったとしても、より邪悪なことであることは間違いないだろう。それは行為の正当化によって自分の邪悪さを否定することになるからだ。

私はこのような村上龍的世迷いごとには興味がない。またデラシネ日本人的な内容にも興味がない。今の精神分析にも興味がない。とにもかくにも面倒くさい。私の文章は生硬い。

以前プロのエッセイストが素人の文章に文句をいっていた。それは文章の生臭さについてだ。その文章を読んで、自称プロの文筆家は、「いかにその文章が恥ずかしいか」についてと「いかに自分の文章の審美眼があるか」をアピールしていた。その文章を読みながら、「この人は売れた人なんだな。」と思った。プロといった言葉がつまらないのは、筆一本で生きている矜持が垣間見えるからだ。

兎に角今回は、「テロルの決算」をテーマに文章を作成してみた。残念ながら、私はこの文章を書いても一銭も金銭が生じない。

じゃまた。

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