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暴力と選択の果てに|中野量太「湯を沸かすほどの熱い愛」

2017年11月3日 - Kritique, Movie Kritique
暴力と選択の果てに|中野量太「湯を沸かすほどの熱い愛」

お昼休みにコンビニエンスストアで何を買うか、迷う時がある。私の中に「ハーゲンダッツ」を買おうとする私と、「明治ブルガリアヨーグルト」を買おうとする私がいる。
まるで私が分裂しているように見えるが、当然私が分裂しているのである。それは私が完全に使徒として生きているからだ。
誰にとっての使徒だろうか。
それは、たぶんハーゲンダッツ社の販売会社の使徒と「明治ブルガリアヨーグルト」の会社の使徒が私の中で戦っているのだ。
「ハーゲンダッツ」派の使徒は私にこう言う。「ハーゲンダッツは高いけどおいしいよ。」それに対して「明治ブルガリアヨーグルト」派の使徒はこういう。「少々安いけれどもおいしいよ。むしろ健康に良いよ」と。
基本的にどちらもおいしいのだから、どちらを選んでもよいのだけど、食事を楽しむうえでハーゲンダッツと明治ブルガリアヨーグルトの差を考えてしまう私がいるのだった。というよりも使徒が。
そして結果的に質の良いハーゲンダッツを買う私がいるのだった。人の目を気にしてハーゲンダッツを贖う私が。
そんなに明治ブルガリアヨーグルトを食べたかったならば、明治ブルガリアヨーグルトを贖えばよいではないか。人は私をそのような言葉で謗るだろう。謗られた私のハートは傷つき、さらに明治ブルガリアヨーグルトではなくハーゲンダッツを買ってしまう。
私は明治ブルガリアヨーグルトを買いたかったのに。

私の中の明治ブルガリアヨーグルトの使徒は深く傷つき、裏切り者の湯田(30歳、丸罰会社で経理を担当している。入社して8年ほどたつ。趣味はバイクでのツーリングを行うこと。仕事はある程度きっちりとこなすが、実力がないのにエラそうな態度が鼻につく)のような気分になるのだった。

この湯田さんの話は後ですることにしよう。

それよりも私が何故このような文章を書いたかというと、映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を見たからだ。

この映画の監督は中野量太。若手の俊英と言われている。ほかの映画は見たことがない。きっと優れた監督なのだろう。他の作品も見てみたい。他の作品には『チチを撮りに』がある。多分お父さんを映画化したのだろう。多分乳のほうではないはずだ。乳のほうだとしたらどうしよう…。実のお父さんの乳を撮りに行く映画なのだろうか。それよりも、今回の『湯を沸かすほどの熱い愛』は母、もしくは愛がテーマだ。主演に宮沢りえを起用している。娘には杉咲花。

宮沢りえといえば、若いころリハウスに引っ越してきたことで有名だ。というかCMに過ぎないが。彼女の人生は綿矢りさの『夢を与える』という小説に重なる部分がある感じがする。若いころにデビューを果たし、コント番組に出演、映画の主演も果たし、たしか10代でヌード写真集を発売、お相撲さんと結婚するかどうかで世間をにぎわし、自分の母との確執に悩む、というワイドショー的内容を、TVを見ていた国民のほぼ全ては知っている、また知っている可能性がある人生を歩んできた女性だ。

その後、『たそがれ清兵衛』に出演し、彼女が女優として非常に才能がある人物であることを皆が知ることになる。女優としては遅咲きのほうかもしれない。しかし宮沢りえは美貌がありながら、役に美貌ではなく感情を与えることができる女優である。すごすぎる女優である。あったこともないのに映画を見ていると圧倒されるのであった。

この物語の主人公は宮沢りえが突然末期がんの宣告をされることから物語は始まる。余命2ヵ月の命である。その時主人公は絶望をせずに、前を向いて生きようとするのだった。自分の娘のために、ヒッチハイカー、昔の旦那、はては娘の実の母親にまで、人間同士のつながりを作り続ける主人公。
シンプルに考えると愛らしいのだが、実は愛ではなくて中野監督が「愛」と名付けたのだった。だからこの物語のテーマのほうは「湯を沸かすほど」のほうに比重が傾いている。

「湯を沸かす」というのは銭湯のことである。自分の夫が銭湯を運営していたのだが、突然失踪してしまうのだ。なんというくず男だろうか。というか人間の屑だ。

そのくず男はオダギリジョーが演じている。その屑っぷりが堂に入っていて、素晴らしいのである。オダギリジョーは『メゾン・ド・ヒミコ』でゲイの男性を演じたり、『ゆれる』では兄弟間の葛藤を演じた。また『奇跡』でもちょっと崩れたお父さんを演じていて、彼は非常にうまい俳優であることが分かる。もしかしたら天才かもしれない。そーいえばTVドラマ『サトラレ』を演じていた時、天才に見えないのにナチュラルに演じている感じがして凄かった。

で、銭湯の話だが、簡単にいうともうすぐ自分(宮沢りえ)は死ぬので、せっかくの銭湯を建て直したい、自分のだめだめな娘(じつは養子)もなんとかしたい。ヒッチハイカーも何とかしたい。と主人公は考えている。基本的に宮沢りえの周囲にはダメ人間しかいない。

そんなダメ人間のなかで自分の中にある愛もしくは沸騰する何かを与えるのは銭湯を復活させることである。と悟ったのだ。

人間が現状を悟ったとき、どのように生きるかが重要な気がする。生身の人間同士が傷つけあうことで、実は人間は自分がどのような人間か、知ることができるのだ。

じゃ、この愛をもった母は凄いのか、と考えるとすごいのだ。凄いけど、この映画を見ると人間は別に凄くなく生きても大丈夫な気がしてくる。

何故なら実は主人公は大してすごい人物ではないのだ。何故なら、最後のシーンで死にそうな宮沢りえは自分の母に会いに行くけど、母に拒否られてしまうのだ。ひどい母だ。と観客の一人である私は思った。このとき愛の使徒である宮沢りえはどうするのか、と思いながらでもなく見ていると、普通に怒って、というか泣き出して物を投げてしまうのだ。

おかげでガラスは壊れた。直さなければならない。修理費はかさむし、どうしようもない。あなたの娘さんは人にすぐ迷惑をかける、と言われ母親はまた落ち込んだりするのだった…という話はこの映画には描かれていない。

それはともかく。

それはそうだ。こんな頑張っている愛の使徒である自分を受け入れない母に怒りを覚えるのは当然だ。私も思った。好かれたい気持ちがあり、愛されたい気持ちが実は母への思慕であることが露呈してしまうのだ。でもそれがまた愛おしいのは、親に愛情を求めるのは強弱はあれども当たり前のことだと思うからだ。自分の思い通りの気持ち、愛情を得られないとき、相手に暴力をふるったり、罵声を浴びせたり人はする。

この映画の怖いところは愛情や人が人に求めることはどこへ行こうとしているのか、見ている人間にもわからないからだ。バイオレンスというほどでもなくても殴ったりしたり、暴力的な言葉でありながら時に優しかったりする。

でも、そこには死ぬまで消えない、と思われる愛情があるのだった。多分中野量太監督は、この世で亡くならないものを映像化することにしたのだ。破壊的な他愛の行為が愛のためだったのだった。
最後にながれるきのこ帝国の「愛のゆくえ」を聞き流しながら、この映画はいったい何を問いたかったのだろうと、不安定な気持ちになる。

本当は自分の娘じゃないのに、そのために愛を注ぎ続けた母親。その結果、娘は耳を聞こえない実母に出会う。
自分は年若く子供を産んだため養えないだろうからと、自分勝手に生きてきた自分の娘を捨てた女性のため、手話を教え続ける義理の母親。いつか役に立つだろうと愛情を注ぎがれ続けた娘は自分の実母に自分がなぜ手話を話せるのか、を手話で伝えるのだ。
この映画を見ていると、私はいかに自分が恵まれた境遇にいるかを感じる。人から得た愛情を簡単に捨ててしまい、その行為の後にも平然とし続ける母の姿を見て、怒りのために塀の上にあるおもちゃを投げつける主人公の愛は計り知れない。
このような映画を撮れる監督は、自分がいかに恵まれているか、を知っていることを感じる。それは愛情でもないし、孤独でもない。
それは映画にかける命がけの行為なのだ。自分自身の生身の姿をさらけだせる。それが愛なのだった。
自分が何者か。それは映画を見ればわかる。
色々と気になる人であり、見ていればいろいろと感じるものがあるだろう。その中でも私は、隣にいる客が柿をよく食っていることが正直気になった。何故ならその柿の汁が私の洋服の足のすそにかからないか正直不安になってしまうからだ。

愛があるのならば、私はそいつに怒鳴りつけるかもしれない。隣にいる柿を食べる客はよく隣の客に柿の汁をとばすやつだな、と。
愛が命がけであるのは人間の命には限りがあるからで、その命や愛をすべて注ぎ込んで相手のことを受け入れようとする力は愛とは程遠い、また暴力とも程遠い。単なる礼儀知らずである。
自分がいかに親に愛情を受け入れられなかったかを知り、その愛情をなぜ他人のためにつかえるのか。

愛とか暴力とかよりも感情が沸騰してくるのが感じられる。生きていることが楽しくなる。何かしら未来を見て生きたくなる。

とにかく素晴らしい映画である。私はこのような映画を見るのに、かなり躊躇があった。けど見たらすごかった。愛だった。何が愛なのか。自分の中の何かが沸騰しているのだった。混乱と反乱とチャランポランの果てに、私は近所のドライブインに入り込んだ。当然徒歩でである。10秒ともかからなかった。

徒歩であるからして訝しがられる、がそれを気にせず私はドライブインの店員に聞いた。「ここはどこですか。」

店員は答えた。「ここは多分天国だ。」

私は非常に深い納得があった。それは自分が生きていることが祝いの中にあるからだった。脳内がハッピー、つまり極楽な状態になった私はもう一度「ここはどこですか。少し道に迷ってしまって」と尋ねた。

店員はもう一度「ここは、世界を、大きく、分けるのならば、天国、だ。」と答えた。

私は「そこにある自販機を使わせていただいてよろしいでしょうか。」と尋ねた。

店員は呆れ顔で去って行ってしまった。

自販機の前に立った時、財布を忘れたことに気づき、ぼーぜんとする私がいるのだった。

じゃまた。

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