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アンチ・タイムレスワールド|ポール・トーマス・アンダーソン「マグノリア」

2017年12月1日 - Kritique, Movie Kritique
アンチ・タイムレスワールド|ポール・トーマス・アンダーソン「マグノリア」

『マグノリア』について


『マグノリア(Magnolia)』は1999年に製作されたアメリカ映画です。監督・脚本ともにポール・トーマス・アンダーソンです。
この物語はロサンゼルスを舞台に、関係性の見えずらい主要の男女9人の24時間を描いた群像劇です。3時間を超える長編作品でもあり、第72回アカデミー賞3部門にノミネートをしています。またベルリン映画祭金熊賞(グランプリ)を受賞しています。
またエンディングで使用されたアメリカのシンガーソングライター、エイミー・マンの『セイヴ・ミー』はグラミー賞2部門、アカデミー歌曲賞にノミネートされました。
監督のポール・トーマス・アンダーソンは「(この映画は)エイミー・マンの歌にインスパイアされて作った」「小説を映画化するのと同じコンセプトで彼女の音楽を映画化してみたかった」とも語っています。

『マグノリア』の物語について


『マグノリア』のストーリーは見る者にとっては難解な形をしています。
それは、初めに寓話から物語が始まるからです。
その寓話の概要はこのようなものです。
「ある男が自殺をするためにビルディングから飛び降りた。それと同じ時間にそのビルディング内でいさかいがあり、発砲した弾がビルディングから飛び降りた男に当たった。この場合、男を自殺をしたから死んだのか、それとも発砲した弾が命中したから死んだのか」
この寓話は初めに見させられる観客は唖然としたと思います。
それは、明らかに男の死ぬために、ビルディングから飛び降りたので、死んだのは男が自殺をしたからです。
人間は人生において、常に死に向かって生きている生き物です。その為、何らかの意味で人間は常に自殺への道を歩んでるともいえます。それはいわゆる突発的な自殺ではなく、緩やかな死に向かう過程です。
そして、この物語は人間がいかに周囲の人間と関わるか、また人が死といかに向き合うかが重要なテーマとして提示されています。
この物語に登場する主要な9人の男女は其々の人生を歩んでいます。殺伐とした街のなかで、仕事を行う警察官、セックスをテーマに自己啓発セミナーを行う男、クイズ番組に出演している少年、ガン宣告をされた老人、覚せい剤にはまるその娘、死にゆく夫を看取る後妻、老人を介護する男、落ちぶれた元天才少年。
この物語は其々の物語がいつの間にか、死にゆく老人に焦点があってきます。それは、登場人物たちは人生の中で、一人の父の死に向き合わなければならなくなるからです。
最後のシーンで蛙が降ってくるのが特徴と言われていますが、実は蛙が降ってくるのはあまり物語には関係がないと私は思います。
この大量の蛙の落下のシーンの為、物語が神話性を帯びてしまったと私は思います。
そこで、物語の焦点を少し変えて、見ていきたいと思います。


死は緩やかに人生とともに歩く

『マグノリア』は監督であるポール・トーマス・アンダーソンがインタビューで語っているように「父の物語」に比重がかかっています。その為、最後に死にゆく老人に満足を与えるため、介護士は彼の息子に連絡をとります。
しかし、老人の後妻や娘は死にゆく老人に理解されないまま、物語は終わりを迎えます。最後に警察官が何らかの関係性を持とうと、老人の娘に話しかけることになりますが、その後の話は描かれてはいません。
ここにあるのは人生における死の役割をどのようにとらえるか、が描かれています。それと同時に救われない孤独な人間の心情も描かれています。
私は死は誰にでも平等に訪れる事と考えています。それは冒頭の寓話からも読み取れるように、突発的な死であろうとも、緩やかな死であろうとも同じことです。
長い人生を生きてきた老人は、自分の死に向き合うときに周囲の人間をいかに傷つけてきたか、を無視して自分の家族に会うことを望みます。
しかし、彼の周囲の人物もまた多くの問題を抱えていました。
結局、老人は死にゆく前に何らかの満足は得られたようですが、残された傷ついた心をもった人物たちは、自分の人生に向き合わなければならなくなります。


何故、蛙は落下してきたのか?

問題は始めの寓話、突発的な死と緩やかな死の違いについてと、大量の蛙の落下のつながりについてです。
一定の範囲に多数の物体が落下する現象の中で「雨・雪・黄砂・隕石」のように原因が知られている物以外が落下する現象を「ファフロツキーズ」と言います。
この「ファフロツキーズ」は具体的な理由が分からないため、様々な仮説が立てられています。
「竜巻原因説」「鳥原因説」「飛行機原因説」「悪戯(人為)説」「錯覚説」と様々です。
旧約聖書の出エジプト記には蛙の落下は「災い」の形で登場してきます。
これらの考えを私は物語における事実として捉えることで、考えていきたいと思います。
どのような形にせよ、大量の蛙の落下は多くの人にとって災害でしかありません。そのことで被害を受ける人が多く、その蛙を処分することも必要になってしまいます。また理由が明確でないため、生活を続ける人たちを不安な状態に陥らせることになります。
『マグノリア』の物語の特徴は大量の蛙が降ってくるで、人生を踏み外そうとして人物が助かることが描かれているところです。
多くの人にとって、災い以外の何物でもないのに、その人にとってはその災いは救いの形をとっているのです。
『マグノリア』が群像劇であるのは、死が突発的でも、緩やかなものでも常に人間におこる現実であるという事実を描いているところです。
そして物語でさえ現実に描かれている世界であり、その行為は誰かにとっての救いにまではいかなくとも、躊躇にはなるかもしれない可能性があると考えられます。


蛙のもたらした人生の回復方法

突発的な死と緩やかな死、それを結びつける最後の大量の蛙の落下。
ただ、ここでは躊躇させられた人は何らかの形で助けられていますが、覚せい剤に依存する女性は、助かることは出来ませんでした。彼女の人生には罪や罰以前の生きる上での悲しみがあり、人生を回復するために多くの時間を費やす必要があるのかもしれません。
愛でもなく、不治の病でもなく、人生における勝利者でもない、何も手に入れられなかった人生を得たかもしれない患者が今後どのように回復していくのか。
警察官が差し伸べた手は、果たしてどのような形をしているのか。それは単なるケアするものとされるもの以外の、人と人が繋がろうとするための何かであるのではないでしょうか。

私は人と人との繋がりの回復、主に覚せい剤や薬物に依存する患者が自身で回復方法は、本人が自分自身を律する覚悟が必要になると思います。
そして自分自身の中で失われたものがあることを知ることが必要だと思います。ここでは薬物依存患者は、まだ自分の父の死に向き合うことは出来ていませんでした。また心理的に喪失することが出来たとしても、そこにあるのは、失われた自分の人生でしかありません。
人によっては、金銭を稼ぐことが人生を回復することに繋がるともいいます。また傷ついた自分の心を人に伝えることが必要だという人もいるでしょう。またこの両者を行うことが必要なことであると伝える人もいるかもしれません。
私は、薬物に手を(出さない)出せない環境を作ることが大事なことだと思います。その環境を整えるために、他人が、その人の人生に入り込むことが必要だと思います。
私の仮説が環境の重要性にたどり着いたのは、薬物は法に依って禁止されているからです。そして法は常に人生における罪と罰を描いているからです。
罪と罰以前の人生が持つコミュニケーションが今後、人間同士が繋がりあうために必要なことだと私は『マグノリア』から一つの仮説として得ました。


まとめ

いかがでしたでしょうか。
『マグノリア』はポール・トーマス・アンダーソン監督が自らの父の死と向き合うことで生まれた作品です。3時間以上の作品ですが、彼の作品からは、物語を信じる力が感じられます。
もし仕事を休みたいときは『マグノリア』のような映像作品を見ることを宜しいのではないでしょうか。
何故なら、映画を見る楽しみが味わえる稀有な作品だからです。

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