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悪人は皆、世界の狭さに怯えている。|北野武「アウトレイジ 最終章]

2017年12月1日 - Kritique, Movie Kritique
悪人は皆、世界の狭さに怯えている。|北野武「アウトレイジ 最終章]

「アウトレイジ」とは非道という意味を指す。非道というのは道を外れていることを指し、ありていに言って人外のものを指す。人外とは鬼や悪魔のような存在だ。なので、本当は存在しない。

では、この世における鬼や悪魔はいったいどのような存在だろうか。人は死ぬと地獄に落ちる、また天国に落ちる。しかしこの世に生きる殆どの人は何らかの悪をなして生きているので、地獄に落ちる予定だ。多分。

ひどい話だと思うが、宗教などによると人が生きる世界さえも煉獄という一つの階層でしかないらしい。宗教とはこのように結構、恐ろしくもコミカルな一面を持っているらしい。知らない人間からするとどのように言えばいいかわからないものだ。そこで宗教者のなかでも一部の人間、マザー・テレサとかジャンヌ・ダルクなどは段々と階層を登っていく。けどジャンヌ・ダルクは聖者として認められるまで489年かかった。

あくまで歴史でしか知らないけど、ジャンヌ・ダルクは亡くなる時は魔女と言われていた。当時の王や政治家が、他人(かどうか知らないが)のことを魔女やら救世主やらに仕立て上げた物語(つまり歴史)を知って、驚かない人はいないだろう。というか現代の作家でもジャンヌ・ダルクを見たこともない人(当たり前だが)がジャンヌ・ダルクのことを簡単に聖女やら魔女やら言うからビックリする。私も書いているけど。

つまり結局、現代でも同じようなことが起きていて、人は人を評価するし、小説や映画の評価も批評の形によって変化をしていく。このことからわかるのは批評とはあくまで切り口であるということだ。

ただ、ジャンヌ・ダルクの場合は世界が広かった。簡単に書くと、一国を救っているのだ。

というか、そのような偉業をなしたジャンヌ・ダルクのような人物でさえ聖者として認めらえるのにはそれくらい長い審査が必要なのだ。ちなみにマザー・テレサは19年で聖人となった。これは異例の速さであるらしい。

これは現代において、聖性というものの本質が政治的に理解されてきたことと関係があるだろう。例に出すのは気が引けるが平野啓一郎の「日蝕」が芥川賞を受賞した際、古井由吉はその作品に対して「投げあげた試みがさほどの揺らぎもなく、伸びやかな抛物線を描くのを、唖然として眺めた。」と評したそうだ。非常にうまい作品ということだろうか。たしかに小説の企みをほぼ完全に書き上げるというのは並大抵ではないのだろう。

ただ平野啓一郎の小説が所謂ファンタジーの領域から出ることがないのに対して、花村萬月が自身の作品である「イグナシオ」をさらに自分自身でリライトした「ゲルマニウムの夜―王国記〈1〉」が芥川賞を受賞したことのほうが、非常に現代的な手法であり作家性を感じさせる。

ここには方法論を持っている作家と、ファンタジーの領分を出ない作家の作品の作り方の違いが見えるようだ。多分、作家というものが一種の殉教者であることを指している。そこで「アウトレイジ 最終章」にテーマは繋がる。

「アウトレイジ」は悪人のみの世界で成り立っている物語だ。要するに世界の縮図を悪人のみで構成するという、ポスター広告でのうたい文句で見たことがある「全員悪人」の映画である。広告に偽りがない。

「アウトレイジ」シリーズでユニークな存在なのはビートたけしが演じる大友という人間性である。大友は「アウトレイジ 最終章」において自殺をする。この映画の中で自殺をする人間は殆どいない。人を殺すことに躊躇はない速さで殺人が起きるが、彼らは自分が殺されることに対しては非常におびえるのだ。

殉教は自分の死という概念が根本的にある。そのためにどのように働くかが存在するのだ。その働きの中にあらかじめ聖性があるので、死を恐れない。ただ死後に福者や聖者になることがある。キリスト教や仏教などの宗教は死後という概念があるから、殉教できるのであり、死を恐れないのではなく、死を恐れる必要がないのだ。

一方「イグナシオ」及び「ゲルマニウムの夜―王国記〈1〉」の作者、花村萬月の小説は聖性や宗教などからの脱出(Exodus)が根本に存在する。あくまで神の子であることが前提になっている。

しかし花村萬月の小説の中に特筆する作品が存在する。「笑う山崎」である。この小説はサディスティックであり尚且つマゾヒズムを持ち得る哲学的な人格を持った人間が主人公である。普通、文学においてサディズムはマルキ・ド・サドという牢獄の作家が作り出した小説世界を指す。そしてマゾヒズムはマゾッホの小説「毛皮のビーナス」をもとに説明される。

つまり生まれがもともと別のものなのだ。サドの登場人物を思わせるような言動をしながら、同時にマゾッホの「毛皮のビーナス」(ちなみにマゾッホ自体はサドのようなエロスの作家ではない。)のようなマゾヒストの人生を選択する人格を持っている。日本の現代文学において、このようなキャラクターを創造した花村萬月の手腕は尋常ではない。

そこで「アウトレイジ 最終章」だが、先ほど書いたように、大友はあらかじめ暴力の中にいながら、最後には殺されるのではなく自殺をする。最後まで大友は暴力しか行っていないのだ。つまり恐怖というものがほとんど感じられない人格を持っているように感じてくる。

多分、これは見る側が見ているうちに感性が麻痺してくるのだろう。「アウトレイジ」から「アウトレイジ最終章」まで通してみていくうちに、そのような思い込みを植え付けられているのかもしれない。

聖性と暴力というのは対局に存在するようにも感じられるが、一方で死というものを身近に置くことにおいては、非常に近いものがある。そこにある違いはただ、死を恐れるか、恐れないかの違いではないか。

どの様に相手を癒すか、が宗教における聖性であるとするならば、どの様に相手を殺すか、がヤクザにおける暴力を意味する。つまり構造上は同質のものをもっている。イエスも同時代においては、一種の異端であり、最後は十字架によって貼り付けにされ「なぜ神は私にこのような受難を賜れたのか」と叫んだらしい。簡単に言うと、イエスの言葉が時代の法に触れたからである。

もしかしたら「アウトレイジ」の大友もこの世界における預言者の役割を果たすのではないだろうか。それは暴力は暴力でしかないことを最後まで体現しているからだ。大友の話す言葉には嘘がない。自分が死ななければならない時に自分を殺す相手が謝罪をしながら拳銃を向けている中で「あなたが手を汚す必要はない」と大友は自分自身の頭を自分自身で撃ちぬいた。

殺人や暴力という行為が汚れたものであることを知っているのだ。そして人を殺すことは聖性においてもヤクザの世界においても、そこに潜むのは一種の精神性であり、人が人と関わることは汚れることが本質になる。

救われようとするものは、自分自身が汚れていることを知っている。だからこそ癒しを求める。人を殺すことは汚れることであると大友は看破していた。そして殺人を繰り返した大友は自分が汚れていることを知っている。だからこそ自分自身を殺したのだ。

それは自殺ではなく、ただ汚れているものが新たに汚れただけであり、その死躰は大友や観客にとっても瞬間のフラッシュバックでしかなく、すぐに失われるものだ。

全ての人間は悪である。だからこそ世界の狭さに怯え、荒野の中で生きることを求める。自分自身が死ぬことを恐れるあまりに。

という感想をもったのは「アウトレイジ」シリーズを一気に通して見たからだ。頭の中の感性が映画の中の暴力行為を見すぎて麻痺している。

なんとなく「荒野」や「暗野」などの「野」のイメージに頭が引きずられている。気を付けよう。

じゃまた。

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