メニュー

断絶されていた世界の片隅で愛を叫んだ除け者|カズオ・イシグロ「日の名残り」

2017年12月7日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
断絶されていた世界の片隅で愛を叫んだ除け者|カズオ・イシグロ「日の名残り」

カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したけど、名前からわかる通り、カズオ・イシグロさんは日本人だ。なので今回日本人でノーベル文学賞を受賞したのは川端康成大江健三郎に続いての三人目になる。けど実はカズオ・イシグロさんはイギリス国籍を持っているので、日系英国人ということになる。

なんで、わざわざ英国人ということを書くかというと、カズオ・イシグロさんの小説は英語で書かれているからだ。とすると私たち日本人の殆ど(英語が読める人も含めて)多分誰かが翻訳したものを読んでいるのだ。

つまり一度誰かのフィルターを通してしか、カズオ・イシグロさん(あくまで日本人だとしても)の小説を読めないのだ。でもそれで特に問題ないと思う。何故なら日本人でも読解力がある人は意外に少ないからだ。大学行ったら読解力がつくかというとそうでもない。頭が良いのと知性をもって、相手のことを理解することとは別のことなので、コミュニケーション以前に相手に合わせる力がないと、コミュニケーションは結構難しい。

読書は実は読解力よりもコミュニケーションツールに使われることのほうが多い。だって学問のために勉強するのって、大体大学にいる教授とか助教授とかぐらいだからだ。なので学問が好きな人は勉強だけしてりゃいいじゃん。というのが私の考えで、人と話すのが好きならコミュニケーションの講義でもしてればいい。

何らかの形で仕事をするほうがいいけど、しなくてもいい。仕事は別にしなくても誰も困らない。現代はレイシズムというか差別主義者が殆どなので、問題が発生しても誰も解決しようとしないのが問題なのだ。

解決しようとしても、だれも解決方法を教えなかったりするし。つまり解決なんて誰も求めていないのだ。レイシズムというか階級主義、差別主義があったほうが生きるのが楽だからだ。だって人前で頑張ってるアピールをすれば結構何とかなるからね。

そこで「日の名残り」である。「日の名残り」は英国のブッカー賞を受賞している。このブッカー賞はフランスのゴンクール賞のようなもので世界最高峰の文学賞の一つだ。

内容についてはある老執事が昔の友人に会いに行く間に、色々と思い出すという内容の小説である。村上春樹の「ノルウェイの森」みたいな話だ。でも「ノルウェイの森」自体がマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のリライトとも考えられる、というと言いすぎでもちろんそんなことなくて、「ノルウェイの森」は村上春樹は自身の近過去をリアリズムで描き出したのだった。ただ日本で誤解されて売れすぎちゃったので(そりゃそうだ、理由もなく人がポンポン死ぬ小説が売れるなんて普通考えないよ)、デタッチメントとかよく解らないこと言いだして海外に逃げ出しちゃったのだ。

それはともかく、老執事が昔のことを思い出していく小説なんだけど、この小説はすごく面白い。ついでに言うと映画も面白い。どこが面白いかというと老執事が昔気質の執事として自分を律して仕事をしている姿を客観的にみる作家の目がとても意地悪な感じで良いのだ。

自分を律して執事として仕事をしていても感情は隠せないし、人間だから感情はある、人を好きになったりする。でも自分を律しなければとか、思い込んでいてどういう風に感情を出せばいいか解らなくなってしまっているのだ。つまり感情はあるけど、そこに魅力がなく時間が既に過ぎてしまっていることに、本人が気づいていないのだ。

そのことに本人が気づいていない悲しみが描かれているのが、この小説の魅力であり、つまり時間自体が心理的には止まっているのに、本人には自覚がなく、動き出したときには既に遅すぎるのだった。実はこんなこと、書かれても読むほうも読んでいられない内容だ。けどあくまで小説、ついでに書くと英国の小説の伝統(というものがあるか知らないけれども)のサマセット・モームジェーン・オースティンチャールズ・ディケンズの小説のような大人の読み物の感触がある。カズオ・イシグロはフランツ・カフカの影響があると言っているらしいけど。

小説は結局メイド長にあっても「遅すぎる」とか言われて過去への追憶は終わってしまう。この遅い感じが多分カフカの「変身」に近いんじゃないか。「変身」という小説はグレゴール・ザムザという男がある日、蟲っぽい何かになっていることを発見していくことをつぶさに記述していくことから始まる。

なんとなく幻想的な小説に思えるけど、実はグレゴール・ザムザは自分が何に変身したのか分かっていなくて、最初に発見したのはなんだかよくわからない名付けようのないものになっている自分になっている。その後、自分の状態を確認していくうちにやはり自分は蟲っぽいぞ、ということが分かってくる。

蟲っぽくなっているので、当然家族は、ザムザを表に出したくなくなるし、ザムザも表に出ないように心掛けるようになる。斎藤環じゃないけど「社会的ひきこもり」じゃなくて「家庭的引きこもり」とでもいえるんじゃないか。最後はリンゴが体にめり込んでいって、少しづつ躰が腐っていって死んでしまうのだけど、別にザムザは自分の意志で表に出ないようにしたわけでもないし、リンゴが体にめり込んだのもザムザのせいじゃない。もっと書くと蟲っぽい何かになっているのもザムザのせいじゃない。

何故か現代人は、社会的に頑張って働かないと価値がないと思いたがる。何度も書くけど、ルールなんて守る必要もないし、意志なんてくだらないものが無くても現代人は生きていける。日本は表向きには戦争に参加していないし、する必要もないからね。もっと書くと憲法9条で一応、戦争しなくて良いことになっている。そりゃそうだ。原爆落とされたうえ、なんでなおかつ戦争しなきゃいけないんだ。

『憲法9条』はきっと当時の政府の人がかなり交渉して、手に入れたジョーカーだと思うんだけど。切り札は最後まで使わないから切り札なんだよ。

重要なのは、「表向きには参加していない」っていうことで、物事をわざわざ裏読みする必要がない。

TVで自衛隊か知らないけれども専制的に攻撃(つまり銃を相手より先に撃つ)ことが出来ないことが悔しかったとかいうことを宣伝していたけど、自衛隊の仕事は、銃を撃つことでもなく、戦うことでもなく、軍人であることで、もっというと兵士であることでしかない。命令が待機することなら待機していればよい。命令を守れない兵士は必要ないってなんで総理大臣は言わないで、わざわざ新たに軍隊を持とうとしたりするのか、わからない。

そんなに銃を撃ちたかったら、最近アメリカであったどこかの大量殺害犯よろしく、誰彼構わず撃ちまくったらいいんじゃない、というのは当然冗談です。本気にする人がいるかもしれないので冗談と書いておきます。

要するに、自分を律することが出来ない感情をもった兵士は危険人物だと私は思う。実は引きこもっている人のほうが結構まともなのかも、分からないのが世の中で、いま斎藤環が社会的引きこもりって病気じゃないし障害でもないよって宣伝し直しているんだけど、実は東浩紀を褒めたり評価したりしていたりしたので、本当に気持ち悪いと思うのは私だけじゃないはずだ。

でも文学の世界では斎藤環は結構評価されていて、それは石原慎太郎を作家として評価しているからだと思うのは私だけだろうか。でもマイナー・マリア・リルケの「マルテの手記」をわざわざ「現代のブログのようなものだ。」と敢えて誤読するような輩なのだ。どう考えても解説向きの文章じゃないし、明らかに読んでいないことが分かる解説だ。

すると斎藤環は今度は「私は日本のFである」とか言い出した。当然FとはフロイトのFで、この言い回し自体が小島信夫の「私は日本のKである」(KはカフカのKです)の物まねだってことわかる人が殆どいないのが怖いよね(というかそんなことに気付く私が斎藤環のストーカーか追っかけみたいだよね、違うけど)。オタクの研究家かどうか知らないけど、誰も頼んでいないのに、「オタクに頼まれたからいやいやながらあえて研究している。」というポーズをずっとしていたのに最近になって「実は私も萌えていた。」みたいなことを平気に書ける神経が分からない。

つまり斎藤環は作家じゃないんだろうけど、誰も文句を言わない。何故なら「自分は作家じゃない。」って公言しているから。だから皆意外と斎藤環本人の「高尚な文学趣味」が鼻につくんだろうな。どーでもいいけど。そうすっと本人から「単なる趣味」だとか「それはともかく」とかはぐらかされるだけかも。

つまり一種の狂人なのだ。でも彼にかかったら自分以外全員狂人にするために論理武装してきそうなので関わらないほうが良い。三十六計逃げるにしかず(…という文章を書いても、「それはともかく」で済まされそうでホント怖いよ)。

いい加減、どうでもいいことを書いてしまったけど、カズオ・イシグロさんがノーベル文学賞を受賞したことって、当然いつか取る人がかなり早めに取ったからびっくりしているだけだと思う。なので、ボブ・ディランが受賞したことのほうが断然重要だと私は思う。

久々に悪口だらけになってしまった。

じゃまた。


 最後にカズオ・イシグロさんの「日の名残り」の小説&映画のほうも紹介します。映画の方も結構面白いので見てみてください。

とくにアンソニー・ホプキンスが演技が上手いのが分かる。この人って一見あまりイケメンじゃないのに、どの映画をみても存在感が半端じゃない。多分この人が出演するのとしないのとでは映画としての価値、というか格が変わってしまうぐらいの名優だと私は思う。

つまり本物の役者なんだ。ダニエル・デイ=ルイスみたいな天才肌じゃないし、ロバート・デ・ニーロのような努力型じゃなくてインテリジェンスタイプな感じなのだろうけど、本当にすごい俳優です。あと、メイド長を演じるエマ・トンプソンも雰囲気あるし、文芸映画の中でも良質なものなんじゃなかろうか。

監督はジェームズ・アイボリー。「サバイビング・ピカソ」は見たことあるけど、パブロ・ピカソを怪物みたいに描いていて、たちが悪い映画だった。でもアンリ・マティスに対してもどこかピカソの嫉妬のようなものが感じられて、ピカソは実は絵しか取り柄がないと思い込んでいた人だったんではないか、と少しだけ想像した。

タグ:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です