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3人の母親が1人の娘を作る神話|荻上直子「彼らが本気で編むときは、」

2017年12月17日 - Kritique, Movie Kritique
3人の母親が1人の娘を作る神話|荻上直子「彼らが本気で編むときは、」

『彼らが本気で編むときは、』がテーマにしているのはジェンダーではあるが、ただ「乗り越える」こと自体がテーマではなく、「ジェンダー」自体が人を幸せにするのか、といった問いかけがテーマになっている。

結局、この問いかけは宙に浮いてしまいファンタジーな結末を迎えるのだが「ジェンダー」の結果、主人公は自分が何者か、見失っていることが見る側は理解してしまうのだ。この映画は、観客の視点や思考を「子供」に誘導する(させる)ことが目的なので、結果的に親子(その中でも母親と子供)が大きなテーマになることが着地点なのだ。

そこでまずはタイトルから考えていきたい。『彼らが本気で編むときは、』とあるが、このタイトルには何か、意味ありげである。そもそも文章の末尾が句読点の「、」で終わっているところが気になる。普通、タイトルに句読点はつけない。それはタイトルは文章ではないからだ。さらにタイトルを文章として捉えた場合、末尾は句読点の「。」で終わるはずだ。

じゃ、何故「、」で終わっているのか。というのがまず第一の問いかけになっている。

次に、この映画には3人の母親が登場するのだが、それらの女性が担当しているのは、トランスジェンダーのリンコを演じた生田斗真の母である田中美佐子、それから子役のトモを演じた柿原りんかの母、ミムラ。それから柿原りんかの友人を演じた子役の込江海翔の母、小池栄子になっている。

この母親たちは、所謂普通の母親たちで、何故普通かというと、子供の幸せを第一に考えているからだ。最近、5歳児が虐待を受けて死亡した事件があったが、あの両親たちは、子供の幸せを考えていなかったのか、というと実はそんなことはないと思う。

不自然に思うだろうが、子供を殺すほど憎む、虐待するのと、幸せを考えることは普通に人間や家族の中で共存する考え方なのだ。そうして、5歳児が亡くなったのは、両親や家族が、子供を殺すほど憎みすぎて、虐待をし過ぎたからだ。他のちょこっと厳しい家族や両親が、子供を憎み、虐待するときはもっと周囲にバレないようにするはずだし、傍から見たら、トランスジェンダーである生田斗真も家族からの虐待の結果、トランスジェンダーにならざるを得なかった人物だったのではないか、と想像することは出来る。

ただ有体に言ってリンコは、既に大人になってしまい、自分の人生を自分で片を付けようとするぐらい責任感が強い。だから、リンコは自分が最後まで手に入れられないものが、母になることに気づいていたとしても、それを求める。そうして母になることは手に入るだが周囲の人間は結局それをファンタジーとしか受け入れられない。これこそが「ジェンダー(乗り越える)」ことにまつわる問題である。

幼いころに自分が女性の心を持っていることに気づいてしまったリンコは母に、自分を女性にしてほしいと頼む。その障害を受け入れた母はリンコを女性へと改造していくことになった…。ということが映画を見ているうちに観客は知る訳で、そのことを周囲の人間が知って、歪みを感じるのは当然だろう。というか、それを歪みとしか受け入れられない土壌が日本にはあるということも一つの問題になっている。

そうしてこの問題は現代のシングルマザーが持ち得るテーマにずれていくのだ。そのシングルマザー問題を象徴してしまっているのが、小学5年生のトモと母の生活である。トモは自分の嫌いな食事を毎日食べる殺伐とした生活を送っていた。

そんなシングルマザーで育児放棄の母親の前に登場するのがトモの叔父のマキオだった。ある日マキオはトモに自分の恋人を紹介する。それこそがトランスジェンダーであるリンコである。

普通に考えるとマキオはゲイなのだろうか、と想像する。というかどう考えてもゲイだろう。トモがそのことを特に追求せずに受け入れているのは、実はトモ自身の心が既に大きく傷ついているからだ、とカウンセリングをすれば容易に判断できる。だがそれはトモの責任ではないし、カウンセラーは何故か、話を聞く相手の問題ばかり抉り出したり問題にしたりする。ここに心理カウンセリング自体が持っている福祉の問題も提示されることになる。

社会が歪んでいるのに、その歪みの一部に属しているカウンセラーにカウンセリングされても、結局何の解決にもならない。だって「ジェンダー」からしたら、社会の方が歪んでいるのだから。それなのに社会から「お前の方が歪んでいる。」という意見をぶつけても何の解決にもならない。しかも「ジェンダー」に対して国や公的機関のカウンセラーは解決する能力が殆どない。その中でも人は心理カウンセラーによって、カウンセリングを求める。それは自分に問題が無くて、相手に問題がある、と捉えたいからだ。

そうしてカウンセラーは国や企業を後ろ盾にして、問題を次々と作り出す。問題があるのは国や企業ではなく、そのシステムを維持するために存在する個人である。じゃカウンセラーは何のために存在するのだろうか。国や企業や社会のためだろうか。これこそ現代の「心理カウンセラー及び心理カウンセリング」が持たざるを得ないテーマである。

母に障害を受け入れられてしまったリンコは段々と女性へと自分自身を改造していき、その形で周囲の人間にも受け入れられていく。ようはリンコは「ジェンダーサイボーグ」なのだ。リンコのことを周囲の人間の誰もが女性として受け入れていく中で、リンコは自分が唯一生物的に行えない行為である出産を飛ばして、母親になろうとする。そのため、トモに対して一種のかどわかし行為を行うのだ。

果たしてリンコは母親になれるのか。当然なれない。というか育児放棄をしてネグレクト寸前のシングルマザーのトモの母はリンコとの対決して「トモが生理になったとき、やり方を教えられるのか。また胸が大きくなった時ブラジャーを選べるのか。女性としての壁にぶつかったとき気持ちを生物的に共有出来て、何らかの形の教師、先生になれるのか」と問うのだった。

その結果、リンコとマキオとトモの家族の形は一種のファンタジーでしかないことにトモは気づいてしまう。そしてファンタジーの中でしか生きられない彼らをこれ以上傷つけないでほしい。私は母とともに暮らすから、と母に伝えるのだった。

しかしリンコの存在がそれほどファンタジーだろうか。リンコとマキオの存在はファンタジーではないだろう。不思議なのは、この『彼らが本気で編むときは、』がトランスジェンダーやゲイセクシャルという問題に対して、正面から向き合わずに回避している傾向があるところだ。もしこの映画が「ジェンダー」自体を回避しなければ、トモはリンコとマキオの方を選ぶだろう。

リンコとマキオの存在(つまり性的に問題をもっている人々)を日本の福祉は一切理解を示さないまま排除をしているのだ。そうしてこの『彼らが本気で編むときは、』は母親の単なるエゴを「愛」という言葉で塗り替えていく。しかし母親のエゴ程邪悪なものはないことも描いているのが『彼らが本気で編むときは、』なのだ。

家族を得る闘いに負けてしまったマキオたちは最後に「トモはコンビニのおにぎりが苦手」なことを母親に伝える。自分たちの持ち得る武器を相手に伝えてしまうのは、マキオとリンコが本当にトモを大事に思っていることを母親に伝える必要があったから。これは弱者には価値が無い、と思い込んでいるネグレクト寸前(というか明らかに虐待をしているし、トモはほっといたらきっと死んでいただろう。この映画を見れば、そのくらいの想像力は働く)の母親に通じるかもしれない唯一の槍(やり)だった。槍(やり)といっても「思いやり」のほうの槍(やり)だ。というダジャレが有効なのもこの映画の特徴だ。

ここまで書いて、この映画のタイトル「彼らが本気で編むときは、」についてなのだが、本気で編むというのは一つ一つばらばらの状態でつながっているひもを本気で編む彼らの次の物語を予感させる「、」なのではないかと想像した。この句読点が非常に重要なのは、多分この「、」の時に息をついているからだ。荻上直子さんは親に理解されたくてもされなかった子供たちが死を選んでしまう姿を描くことで、いくらひどい目に会っても、現実を生きようとする子供たちに対する強いメッセージになっている。

「ジェンダーサイボーグ」化してしまったリンコの姿を残酷なまでに描き出し、そのリンコと最後まで戦い続けるトモの母親の姿は圧巻である。子供を守るため、相手のセクシュアルな問題を口撃し続けるのだが、この映像を見ていて「母の愛」よりも「母のエゴ」を想起する方が正常な思考なような気がする。結局お互いエゴイズムによってしかトモを捉えていないかったのだ。

相手のことを理解しすぎる子供は死を選ぶ。親の虐待を受け入れてしまっているからだ。そして死から生還した後、親に対して申し訳ない気持ちになる。

この心理的構造を当たり前と受け入れる社会がこの世には存在している。それが心理カウンセリングの限界なのだ。心理をあやとして、彼らが本気で編むときは、いつもとは一味違うやり方で編む必要があるだろう、という想像力がこの『彼らは本気で編むときは、』を見るといつしかついてくる。だからこの映画は凄いのだ。

弱い存在は親に頼らなければならない。そして親に頼るのが当たり前の子供は親と決別することが出来なくなる。だからこそペニスの形に編み続けることで煩悩をカラフルなファンタジーの形で編むリンコの不気味さ(女の情念)が観客の心に焼き付くのだ。

この映画では、ペニスを編むという現象を無意識の行動として描いている。実は本当にはあるはずのもの(リンコは生物学的に男性なのでペニスがあるのが常態なのだ)が本当はないのが当たり前(リンコは心理的には女性であるらしいのでペニスが無いのが常態になる)の心理が、ペニスを編み続けてそれをヴァギナという形に裏返らすため、リンコは編み続けるのだ。

ここで「ジェンダー」の問題がある。男性の身体的特徴にはペニスがあることだし、女性の身体的特徴はバストやヴァギナがあることになっている(というか殆どの人が男と女性の違いをこのようにとらえるだろう、それ以外には髭が有る無し、骨格、つまり身体に対する筋肉の付き方など)が、男性と女性はもっと本質的に違う生物である、と殆どの人が理解している。つまり大体の人が見た瞬間に、男性か女性か判断できること自体が生物的な違いなのだ。これが私たちの知っている見た目というものになる。

リンコは自らのセックス(性)を身体的に(外見上)改造することで、自らの心のありように身体のほうを変化させていった。このような「ジェンダー」はまだ社会的には認知されていないし、認知されていないということは理解もされていないので、こころのままに人生を生きる為、身体を改造する人を理解できない(しようとしない)。

人間は普通、体が先に出来ているのだが、心が先に発達してしまう場合もある。ただあくまで心理カウンセリングのレベルでしか無いし、密室でしか起こりえない問題であり、より個人的な問題化してしまう為、環境よりもコミュニケーションの能力が発達してしまう。その後、環境がその人間の心に合わなければ、その人の内面はスラム化するだろうし、その人間の心は壊れてしまう。

だが、このような考え方は、初めから社会的に障害がある、と仮定した場合、ありえる考え方であり、結局社会に根ざした個人主義がこのような問題を作っていることを考えておいたほうが良いだろう。実際個人主義を持っていた場合、社会的には容認されないし、個人自体がシステム化してしまうからだ。

この映画は、親であることや子であること、つまり家族の在り方について考えさせてくれる。現代における「セクシャルマイノリティー」は家族が関わった場合に起こるということだ。「セクシャルマイノリティー」は殆ど生存場所が規定されている。それは出来る仕事がかなり限定されてしまうからだ。同性を好むことは酷い事である、とほとんどの異性愛者は考えるが、これは異性愛者が自分たちの持ち得る本質的なまでの生物的な正しさを否定されている(またされうる可能性)を考えるからだろう。

親になることにそれほどの覚悟を強いる社会に現在の日本はなっている。ある程度、女性として「正しい」生き方をしないと、福祉の対象にはならなかったりする。母親でも弱い人がいるし、むしろ母になることで弱くなる人もいるだろう。それなのに女性としての生き方・働き方を推奨するのならば、なるほど少子化が進むだろうさ。そうすると当然、労働者及び労働力は減ってしまう。もともと日本は労働力が足りないといわれている。その理由は日本では知的労働と肉体労働以外の感情労働が発達してしまっているからだ。感情労働は一言で書くと、サービス業である。アルバイトやブラック企業が無くならなくて、日本人の殆どが未来に希望を持てないのが、現代日本の大きな問題の一つだ。

女性を社会に進出させているのは、家庭に女性を引き籠もらせると、労働力が減ってしまうからだ。だったら、むしろ普通に男性の給料を増やせばいい。労働者の数(絶対数)を減らすことで、個人の給料を増やす。バイトを増やすことで会社自体の環境が悪くなっていくのが日本の社会や会社の問題にもなっている。実際的に考えると、こちらの方が良い未来にたどり着きそうな気がするけど。

そこでサイエンス・フィクション的に未来を考えてみよう。もし労働において、個人の能力を排除してシステムにおいて作業をさせるようになると、仕事自体には人間は可能性を得ようとはしなくなる。とすると人間は欲望において可能性を選ぼうとする。

しかし、その欲望の対象を全て恋愛やセックスを対象にしなくても良いのではないか。「トランスジェンダー(性を乗り越える)」の人たちの問題は欲望の対象が確実に異性愛者とは違う、と普通の異性愛者は考えていることにもよる。何故なら普通の異性愛者は欲望の対象が正常な恋愛やセックスだからだ(と思うんだけど、どうだろうか、所謂健全な人間の在り方ってやつ)。

この正常であることに対する不安を描いているのが『彼らが本気で編むときは、』という映画であった。

この映画は薦めるけど、見たまま受け入れて良い映画ではないだろう。かなり観客に見方を考えさせる映画だ。少なくとも私は考えた。何故なら美しいトランスジェンダーという言語矛盾の存在が物語の主人公の一人だからだ。存在を理解できないから皆、リンコを口撃する。この映画を見た人は役者である生田斗真を優れた役者と褒めるだろうけど、映画ならではのマジックというには役者に頼りすぎている感が無きにしもあらず。

だけど、映画の未来に希望を持てる映画でもあった。多分50年前に作られても傑作と言われているクオリティだと思う。

じゃまた。

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