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使徒VS反抗|富岡幸一郎「使徒的人間-カール・バルト-」

2017年12月26日 - Criticism Kritique, Kritique, Literature Kritique
使徒VS反抗|富岡幸一郎「使徒的人間-カール・バルト-」

図書館の中を彷徨うこと約30分。私は富岡幸一郎の『使徒的人間ーカール・バルトー』を手に取った。使徒という言葉に魅力を感じたからだ。もっと書くと、使徒的という言葉のニュアンスに魅力を覚えたからだ。

私は使徒という言葉から、イエス・キリストの十二使徒を思い浮かべる。若い人の中には『新世紀エヴァンゲリオン』の人類を滅ぼす存在を「使徒」と呼ぶことから、アニメーション映画の中の怪物的存在を想起させる人もいるだろう。

もともと使徒とは狭義では前述のイエス・キリストの12の高弟を指すのだけれども、広義ではキリスト教の宣教師と、その宣教師の称号を指すらしい。もともとは”派遣されたもの”を指すギリシャ語が原語になっている。ようはブラック企業の派遣社員みたいなものなのだろうか。実は、「使徒」は日本のキリスト教文書内でのみ「使徒」という言葉を使うらしく、翻訳の齟齬があるらしい。ほかの原語では「使徒」はキリスト教文書内のみで特別に使われる言葉ではないのだ。このことからも「使徒」という言葉が日本人にとって特別な意味があるらしいことがわかる。

では、富岡幸一郎の記す「使徒的人間」とは誰を指すのか。日本におけるキリスト教文書について記そうとしているのだろうか。

実は「使徒的人間」とはキリストの使徒を指すのだった。そのまんまだった。そして、実はこの長編評論は「『新約聖書』という書物自体がイエスという存在をキリスト(キリストとはメシア、つまり救世主を意味する言葉であり、イエス・キリストを直訳すると救世主・イエスとなる。)として捉えるために、イエスと同行した使徒たちがイエスの行動を逐一に記録したドキュメンタリーである。」と看破した画期的作品なのだ。これはキリスト教徒なら誰でも知っていることで、なるほど、とすると新約聖書はイエスという存在を多角的に書いた一種の作品、当時のイエスファンたちが作ったイエスと愛でる同人誌といえるわけだ。

ただ『新約聖書』はイエスを愛でるファンアートではなく、一個の思想家だったイエスを救世主として祭り上げようとする壮大な仕掛けだった、ともいえるだろう。

なので、この長編評論をより深く理解するためには20世紀を代表する日本人カソリック教作家遠藤周作を忘れてはならない。遠藤は『新約聖書』を多角的になおかつ深く読み込んだため、日本人から見たキリスト教というものが実は日本人にとっては、身の丈が合わない宗教であり、海外のキリスト教派遣業者によって日本に輸入(伝導)されたキリスト教と海外のキリスト教徒は、違う宗教なのではないか、と看破しているのだ。

私も若いころ(確か中学生ぐらいだったろうか)遠藤周作著『沈黙』を一読、驚愕してその後の人生を大きく頓挫してしまった人間である。私はキリスト教に特別な愛着もないが、宗教という機構によって、告白や救済自体が一種のシステム化されているのではないか、と『沈黙』や『深い河』『海と毒薬』を読むうちに漠然と感じられるようになった。遠藤周作のカソリック教作家らしからぬ、「弱い神」「人生の同伴者としての神」という宗教観は、同時代のカソリック教に大きな衝撃を与えた。その結果、遠藤周作の『沈黙』は一部のカソリック教会では、焚書扱いになってしまったのだ。

そもそも私はイエス・キリストという存在のことを日本的なものとしてしか捉えていなかった。ただの日本人であることに何ら疑いなく生きてきた私には、キリスト教も聖書も単なる文学であり現象でしかなかったのだ。キリスト教会が建てられてもいるが、一方でお寺や神社もごく自然にあった当時の日本では、いずこかの宗教の信者にでもなっていない限り、特別な事象とは捉えづららかったのだろう。

しかし『沈黙』という小説を読んでいた時期を考えると、若いころにこのような文学に触れておいて良かったと今では思う。それは自分の中に、生きていくうえでの澱のようなものが、少しずつたまっていくのを感じるからだ。

この澱が、私の目を少しづつ開かせてくれた。その結果、大きく何かが見えているわけではないが、ぼんやりと影のようなものが見えるようになった。その影が私の視野に入り込むことで、私はいつもの私とは違う目線を持つことが出来るようになった。不思議なことを書いているような気がするが、多分アイディア自体が目線や思考によって成り立っていることを無意識に理解しているのだろう。日常的にブレインストーミングが行われている状態に近い。

この考え方は極めると、オッドアイ(奇数の目、人間は普段二つの目を持っているがオッドアイとは、2より一つ多いか、少ない目をさす。一つになると極端に視野が狭まり、三つになれば極端に視野が広がる。)を持つことに繋がるだろうが、この「目」はうまく使わないと、自分自身の生活を破壊するような「目」になってしまう。なぜなら、三つなる目は文化に根差した目だからだ。手塚治虫著『三つ目が通る』の写楽も第三の目が開いているときは別人格が生じるが、別人格からすると、二つ目の写楽こそ別人格だ。つまり第三の目が開いているときは、実は一つの目の状態である。ただ客観的にみると三つ目なのだ。なので、三つ目という捉え方は実は合理的判断であり、現象的なものであり、心理的実情はオッドで捉えられる。

私が『使徒的人間』を読んだのは、図書館を彷徨うゴーストじみた自分が使徒であることを覚えるからだが、それは自分も自分自身の思想を誰かにダイレクトに伝えるのではなく、誰かの思想の澱の中にある私を人に伝えようとする人間だから、という自覚からきている。話が飛ぶが、超個人的なウィトゲンシュタインの超個人的な哲学書『論理哲学論考』をより多くの人が理解できるためにHTML(ハイパーテキストマークアップランゲージ)という文体が生まれ構造化され、バタイユの思想書『ドキュマン』はドキュメントの形式を持つ個人史自体が思想化するという離れ業をなしている。それは思想が個人の中で体系化されているため、より大きな論理構造を、思想が求めたということではないだろうか。

では私の思想も、いずこかの論理構造に所属・依存しているはずだ。私の思想はどこに所属するのだろうか。私は何の(誰の)使徒なのだろうか。そもそも私が使徒であるとすれば、私の内面が分裂していることになりはしないだろうか。オッドアイでもないのに常にアンビバレンツな状態が保持されているのか。二つの目があるから、わざと片方の目を閉じてみる…とか。もしくは二つの目が、それぞれ一つの自立した目として活動をしているとか。

キリスト教の使徒は死を恐れなかったらしい。本当だろうか。もし本当ならば、彼ら使徒たちは、二つの目が、オッドアイ化していたのではないだろうか。彼らのキリストを信じる行動には、視野が極端に狭まっているのが感じられる。キリストの思想を世に広めるためならば、十字架に磔にもなっている使徒がいる。キリストの復活を信じて、それを世にしらしめるため十字架で磔になっているのだ。というかキリストも磔になっている。時の王に裁かれたためだ。

このようにキリストのドキュメントである『新約聖書』における「使徒」をキリスト教の枠組みで語りなおしたのが『使徒的人間』なのである。構造自体をより明確にすることで、脱構造ではなく、実存における自由をテーマとして取り上げている。いうなれば新しい契約をするため」ではなく「新しく解体するための聖書」と書くとわかりやすいかも。そして本質を浮き彫りにして、人間の復活を求めたのだ。

では「使徒的」とは何を指すのだろうか。実はこの評論で大きく取り上げられているのはナチズムであった。キリスト教の使徒たちを「使徒的」と捉え、今までのキリスト教を本質的に捉えていたカール・バルトは時代が近代的自我から自由思想へと変換していく時代、つまり神学が人間学によって解消されようとする時代に、あえて神の言葉と啓示を取り上げることで、人間の真なる復活を唱えたのだ。信仰の本質を捉えなおそうとしていたのだ。

この行為の底にはカール・バルトが持たざるを得なかったナチズムに対する反抗があった。ナチズムとの戦いは、カール・バルトにとって必然だった。それはドイツ・キリスト教がナチズムをも飲み込んでいくこと自体、時代の潮流であるからして当たり前であるということを必然化したこと対する反抗であり抵抗だった。

反抗という言葉が出てきたので、反抗について少し考えてみたいが、『反抗的人間』といえばカミュの作品である。カミュとサルトルは実存主義者同士であり議論を尽くしてきたらしい。互いに相いれないのは、カミュは常に、自己主体の考え方を主張しているのに対して、サルトルはいかに生きるべきか、をテーマとして捉えていたからだ。

カミュの『異邦人(アウトサイダー)』は始まりから終わりまで、主人公の独白で成り立っており、読んでいて全くストレスがないのが特徴である。それは主人公であるムルソーの中でおこる内面活動と行動に嘘がないからだ。普通、内面活動と行動が別だったりするが、その別の部分を含んだうえで、ムルソーには嘘がない。内面活動において、現実にどのように対処するかを思考するため、「太陽がまぶしかったから」という現実における真実を死の直前まで行い、告白をしてしまう。ムルソーの「告白」のシーンを読むと、井伏鱒二の『山椒魚』の「山椒魚は悲しんだ」と同じくらいドラマチックに描かれている。小説のダイナミズムの本質が描かれていて、「告白」をどのように描くか、は文学のクライマックスの一つといえるだろう。

島崎藤村の『破戒』は初めから「告白」をしているため、以後どのようにその嘘が暴かれていくか、が描かれている。そこには、特権階級だからこそ感じられる不安がある。それよりも、「山椒魚は悲しんだ」や「太陽がまぶしかったから」のほうが我々が生きている中で覚える強いダイナミズムに近い。

ムルソーにとっては殺人がおきて、その罪を自分が被ることは「雨が降ったから濡れた。」や「石があったから蹴躓いた。」と同じくらいのレベルの行為なのだ。そもそも実存をテーマにしている作家、カミュにせよサルトルにせよ何故か妊娠をテーマにしている。女性に振られそうになったり、もてたり、母が死んだりということを著者や登場人物がいかに気にしているかが、読んでいて感じられる。この二人の作品の女性に対する自意識の高さは、石原慎太郎や小島信夫の小説群にも似た雰囲気を感じる。もしかしたら、四者とも「女性は妊娠するものだ。」と思っていたのではなかろうか。確かにそうだろうけど、男は妊娠しないけど、なんか気になる考え方だよな。

で、反抗と使徒がどのように結びつくかというと、使徒の場合は「誰がために」という認識が強い一方で、反抗は「何を言っても」という強い自我がある行為になりえる。使徒は正義をなそうとしているが、反抗は本人が正義の状態にある。この在り方が、内面活動と外面活動の世界をつなぐ本人の実存となりえるのであろう。

その結果、使徒的とは実存的反抗となってしまうのだ。恐ろしや実存の亡霊よ。ついに使徒も亡霊につかまってしまったか…。いつか使徒がよみがえる日が来るのだろうか。

というか、私的には「的」という言葉は使いやすいし、それゆえ魅力は失われている部分はあるけど、この『使徒的人間』における「的」という言葉がうまく作用しているように感じられる。それは使徒が人間であることをもう一度捉えなそうとする優雅な冒険であることが、うまく感じられる「的」だからだ。多分。

『使徒的人間ーカール・バルトー』は面白い書物なので、一度読んでみることをお勧めします。では、枝葉末節主義者たる私は、誰の使徒か、幹があっても枝葉がなければ太陽からエネルギーを得られない。枝葉を切るということは、その幹を弱らせる行為であるからして、あまり勧めない。

言葉尻をとるのは、ビジネスパーソンならぬ野次馬の習いである。あまり趣味がよくないね。

じゃまた。

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