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説教と教訓の童話作家|シャルル・ペロー著/澁澤龍彦訳「長靴をはいた猫」

2018年1月26日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
説教と教訓の童話作家|シャルル・ペロー著/澁澤龍彦訳「長靴をはいた猫」

シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』について

『長靴をはいた猫』はシャルル・ペローが収集した童話集を澁澤龍彦が訳したものである。なので正確に書くと、やはり『ペロー童話集』になる。あくまで澁澤龍彦の世界が投影されているため、『長靴をはいた猫』なのだ。

よく言われていることだけれども『ペロー童話集』の特徴は、説教や教訓を挿入しているところが独特な所である。グリム童話には説教や教訓が挿入されていない。これはどういうことだろうか。ブラザーズ・グリムは童話を読む人間に説教を垂れる趣味がなかったのだろうか。

そんなことはなく、自分の書いた話を楽しんで欲しいのが第一だろうけれども、その物語から自分たちの思想を感じて欲しいのも当然なのだ。

世界的童話作家の先駆け、アンデルセンだって、『絵のない絵本』と銘打って自身の創作童話を発表したりしているけれども、自分の思想を相手に伝えたいと同時に、その物語を楽しんで欲しいと考えていたはずだ。

そもそも昔から存在する童話や創作物語には説教というよりもユーモアあふれる物語が多い。しかしそれをユーモアを感じるのは私たちが現代人だからであり、突然お城のお姫様の話をされたり、人魚やらドラゴンに登場されてもリアリティがない。猫が長靴を履くのは可愛いけれども、しゃべりだしたら「ディズニー映画かよ。」とつい、ツッコミを入れてしまうのは、私たちがすでにディズニー映画を知ってしまっているからだ。

当然、当時の人々はシャルル・ペローやらグリム兄弟やらアンデルセンやらが、物語を収集したり、物語を作ったりすることを、非常にびっくりしただろう。日々の仕事を楽しんだり、家族との関係で上手くいったりいかなかったりしながらも生活をしていたであろう人々は、物語という存在に吃驚したのだ。

そして自分のした経験を皆が理解できるように解りやすく順番立てて、ストーリー化されて、ついでに最後に落ちのようなものが付いたりされたら、みんな驚いていた。ハッキリ言って爆笑であろうし哄笑であろう。

でも童話が生まれた時はまだ「落ち」という概念がなかった。

江戸時代の落語には「落ち」という概念がありダイアローグで物語が進むため、お後がよろしい必要があった。噺家の噺には地の文を語る必要があったので、モノローグ化されているのだ(『新釈落語咄』にそのような事が書いてあった。気になる方は読んでみて下さい)。

つまり、『ペロー童話集』の特徴には説教や教訓があり、物語に落ちをつけていることが特徴だった。お話やストーリーではなく、初めから語るに落ちる物語なのだ。

この部分が非常に現代的で合理的であり、現代人にアピールできるところではないだろうか。

親が子供に読み聞かせる場合にも、めちゃくちゃ怖い内容なのに、最後に教訓や説教があれば、いくら怖い話をしても「子供のためだから怖い話をした、わざとじゃない」云々と言い訳も立つだろうし、子供の集団に読み聞かせる場合においても楽しめるだろうから。皆で怖がって皆で爆笑するだろうし、哄笑するだろう。

そんな『ペロー童話集』の中に怖さや邪悪さを確認できるのも、私たちが現代に生きているからであろう。私たちから見ると昔の童話はとても残酷だからだ。

しかし、それは残酷な結末でもなんでもなく、当時の現実に照らしあわされて作られて物語のため、残酷な結末のストーリーが多く、ハッピー・エンドで終わる話がとても少なかったのだ。

『ペロー童話集』も当然残酷であり、例に出すと『赤頭巾』は、狼におばあさんも、ひいては赤頭巾も食べられてしまう。当時もしかしたら狼に食べられる例があったのかもしれない。狼は話しかけたりしないだろうけど。わおーん。

そこで『ペロー童話集』を編み出したシャルル・ペローが何故、物語の最後に説教や教訓を挿入したかを考えてみたい。


シャルル・ペローの教訓の理由

物語の最後に教訓があるのは、その物語があくまで読む人間や、聞く人間と関係がないからである。当然、狼に食べられたら話を読めないし、聞けない。

しかし狼が話す人間だったり読む人間の場合は、教訓を聞くことは出来る。

だから、悪いことをした大人たちと子供たちに対して、人生の師の立場をシャルル・ペローがとっていることがわかる。

でも、説教や教訓という概念は、相手が子供の場合にだけ成り立つ。しかも狼みたいな大人に教訓されても仕方がない、と子供も思ったり、子供の親も思ったりするのではないだろうか。

何故なら善人や良い人は基本的に、悪いことをしないからだ。それなので、教訓や説教は、物語≒人生において、悪であることが大前提になっている。だからこそ、物語を教訓に、以後そのようなことは行わないようにする、と相手に伝えるのが説教であり教訓なのだ。

悪いことをした相手に教育をする人や指導をする人間は当然、説教をする。教訓を必要とするので物語を教訓節に変更する。

しかし、もともと教訓を必要としない人生や物語において悪とは何だろうか、またもともと善悪が存在しないはずの物語が教訓化するのは、何故だろうか。


物語による善悪の要請

繰り返すが、教訓とは人生を指導する人間が行うもので一種の戒律である。

つまり法律においてではなく、人生や社会における倫理や一定のルールであり、そのルールをはみ出したものに対して、行うのが教訓である。

つまり悪ではあるかもしれないが、罪としては成り立たないのだ。

社会生活を送るうえで、必要な文言であり、挨拶や食事のマナーやコミュニケーションに繋がり、それ行うことで社会的には一定の評価が得られるのがルールを守る事の意味である。

つまり、ルールにはそれぞれの社会の持つ特殊性を帯びているのだ。そしてその世界を成り立たせているであろう善悪という特殊性こそ、教訓の文言のもとになる。

そこで『ペロー童話集』の一編、『赤頭巾』を例にとると狼の甘言に振り回されて、赤頭巾はおばあさんを狼に食べられてしまい、自分も狼に食べられてしまう。最後の教訓は「『狼』には気を付けなさい」になるのだが、この内容は『狼』があくまで自然現象として成り立っているところが肝になっている。

つまり内容的には「怪我には気を付けて」といったレベルの日常的な会話である。

もし罪という概念があるのなら、人語を介する狼はその後、裁判にかけられるか警察に取り押さえられるかするだろうし、『狼』は自分がとても腹が減っていたのでやむを得なく、食べたのであって、自分の命や狼権の尊重を主張するだろう。

そして死んでしまっては元も子もないのが「赤頭巾」の物語だし『ペロー童話集』などの昔ながらも童話の基礎なのだ。

たしかに善悪において、人間は生き物であるので生きていなければどうしようもない。だからこそ物語の中においても「怪我をしないように注意深く生きよう」ということを求めているのが『ペロー童話集』になる。

しかし物語の中の喰い殺された「赤頭巾」から学ぶという奇妙な二律背反もまた行われている。あくまで現実に起こったことから、対処するのが善悪の要請であり、そこには罪も罰もない世界が広がっているからだ。

もし罪や罰のない世界があるのならば、善悪も存在しないことになってしまう。道徳や哲学が国家を創造したことこそが、重要であり、物語は常に国家を乗り越えて、倫理や道徳、哲学を乗り越えることが出来るのだ(ソクラテスとプラトンの関係やミシェル・ノストラダムスの大予言、フランツ・カフカの小説群が世界に与えた影響と、物語集の影響力は関係があると思う。それは民間の哲学であると同時に人を動かす力を持っていたからだ)。

そこで、より良い人生を求める人に勧めたいのが『ペロー童話集』になる。この童話集の善悪の要請と、罪と罰の欠如から生まれる説話のニュアンスをくみ取れる人は、ユーモアをもって人生に接することが出来るのではないだろうか。

それはこの世には「狼」が必ずいて、正直者の「赤頭巾」やおばあさんは、人生において常に「狼(怪我)」から逃れることは殆ど不可能だからだ。

だからこそ、大人は弱い子供に説教をするのだ。「赤頭巾ちゃん気をつけて」と。

そして、もし私が保険勧誘の仕事をしているのならば、死亡や怪我の保険に入ることを進めるだろうけれども、現代には狼に食べられた時の保険はなかなかない。保険勧誘は失敗に終わるだろう。わおーん、と吠く。

じゃまた。

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