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私たちが魔女だったころ|松浦理英子「葬儀の日」

2018年3月9日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
私たちが魔女だったころ|松浦理英子「葬儀の日」

松浦理英子は1958年5月7日、愛媛県松山市に生まれた。2018年、現在59歳になる。幼少期を四国地方の各地で過ごしていた。青山学院大学仏文科卒業。10代のころよりマルキ・ド・サドやジャン・ジュネを愛読していたそうだ。もともと仏文科を志望したのもジャン・ジュネを原語で読むためだったらしい。

大学在学中の1978年に「泣き屋」と「笑い屋」との奇妙な交流を描いた『葬儀の日』で文學界新人賞を受賞している。またこの小説で芥川龍之介賞の候補にもなった。

1987年には、レズビアンの恋愛を描いた『ナチュラル・ウーマン』が中上健二の絶賛を受けて三島由紀夫賞の候補にもなっている。

直近では2017年に出版された『最愛の子ども』では泉鏡花文学賞を受賞している。

このようにみていくと松浦理英子は芥川龍之介賞と三島由紀夫賞、文學界を代表する二大新人賞に候補になりながらも落選している。それには理由があるとは考えられない。受賞するか、しないかは時の運だからだ。

また、松浦理英子は非常に寡作な作家である。彼女が出版した作品は数えてみると『葬儀の日』『セバスチャン』『ナチュラル・ウーマン』『親指Pの修業時代』『ポケット・フェティッシュ』『優しい去勢のために』『おぼれる人生相談』『裏ヴァージョン』『犬身』『奇貨』『最愛の子ども』と11作品。その中でも小説作品は8作品と10にも満たない。

この数の少なさには何か理由があるのだろうか。

『葬儀の日』には「泣き屋」の死が描かれているのだが、あくまで「泣き屋」と「笑い屋」は他者であることが前提になっている。そして『葬儀の日』は「泣き屋」の葬儀に「笑い屋」が向かっている所から始まる。基本的に、葬儀には家族や親類、仕事など社会的に関係性がある人間しか参加しない。つまり他者は参加しない。その普通は参加しない葬儀に仕事として他者が入りこみ、場を盛り上げるのが「泣き屋」であり「笑い屋」なのだ。

つまり他者の関係でしかなく、ほぼ全く関係のないものと思われる死、さら冠婚葬祭における「葬」つまり葬儀という儀式に重点をおいて小説が成り立っている。「笑い屋」と「泣き屋」は仕事場、つまり葬儀の日のみにたまたま4年間、顔を合わせただけの関係に過ぎない。そして突然「泣き屋」が死んでしまったため、「笑い屋」は仕事場、つまり葬儀の日に「泣き屋」がいないことで「泣き屋」の死、つまり他者との別れを知る。

彼女の小説を読み返してみると、『葬儀の日』には対人関係において、その中でも他者の間でおきている根源的な磁場に関するマジックが存在している。そして人間関係が持ち得る面白さの根源の中にあるものは、私たちが何かしらの形で魔女であることにつながるはずだ。ないかもしれないけれどもあるかもしれないものを文藝の形で結晶化したことこそ、松浦理英子の才能である。

そこで、私は斎藤美奈子の批評の形式を取り入れて現代のフェミニズム文学を代表する『葬儀の日』に「魔女小説」というあだ名をつけることにした。人真似の猿真似だが、文藝を商品として取り上げる(文学的商品学)斎藤美奈子の批評形式は鋭いというよりも、その「遅さ」が魅力的だ。なぜなら書籍として出版されている以上、すでに商品であることには間違いがないからだ。ただ「○○小説」と名付けることで、その本に新しい魅力が見えてくる。そもそも『葬儀の日』は1978年に出版されていてすでに40年経過している。その状態でも今の読者にも読みえる作品であるということは、すでに古典化されているのだ。なので同時代で読んでいた人たちもすでに、高齢になっている。けど、『葬儀の日』は現代に生きる人たちに対してもとても魅力的なテーマが盛り込まれている。それは世代を超えた他者が描かれているからだ。

「魔女小説」と名付ける場合、当然魔女を規定しなければならない。では、魔女とは何だろうか。魔女とは超自然的力を使い、人間に害を与える人を指す。人の無意識に作用する力を顕現化させることが出来るのが魔女なのだ。その為、魔女を表すのに呪術やシャーマニズムの概念を取り入れていることもあり、魔女自体、シャーマンと捉えられる場合もある。

さらに、日本語の場合、魔女という言葉は女性男性どちらも指すことになる。あえて男だけを指す場合、魔男(まおとこ…だろうか)という言葉になるのだが、あまり普及されていないため、あえて説明すると魔法使いや魔術師という言い方になる。なので魔女の中には女装をしている男性もいるだろうし、そもそも魔女と「女」と書かれながらも男女を指す言葉であることが魅力的だ。

さらに、魔女的存在自体は確認されているのだが、どの様な行為(儀式)をしたら魔女と呼びえるのか、定義自体が難しいのも魔女の特徴になる。

具体性に書くと「お百度参り」は日本の文化に昔から存在する魔法、つまり超自然的行為を呼び寄せるための行為である。また藁人形に呪いをかけたい人間の顔写真をはり、釘を打つなども呪いの一種にあたる。「こっくりさん」など子供時代に行ったことがある人もいるだろうが、「こっくりさん」も呪い、つまり魔法の一種である。これらの行為は継続的に行うことで、いつしか呪いを相手に与えることが出来るらしい。現代的に言えばその人の無意識の部分にダメージや不安を与える力になる。

そして、現代の魔女は人の無意識の機能に作用させる力を持っている。

そのような「魔女小説」の中でも『葬儀の日』は差別用語化されてしまって無意識に使われている言葉や思考に対して根源的な揺さぶりをかけているのだ。松浦理英子が大学時代に耽読したジャン・ジュネの『泥棒日記』や『葬儀』『花のノートルダム』『薔薇の奇跡』は、今まで文学とは捉えられなかった言語を、文學としてとらえなおすことをしていた。現在の松浦理英子の小説群も文学としては捉えられなかった女性だけが持ち得る感覚を文藝の形式で表現することで、人の無意識の言葉や思考自体を揺さぶろうとしているのだ。

で、知識をひけらかしているようだけど、ここで挙げている小説は当たり前だけど、全て読んでいます。このように書いていると「また、知ったかぶりして」と色々と心配されることがあるので、一応念のため書いときます。

じゃまた。

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