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普通の人びと|武富健治「鈴木先生」坂元裕司「anone」

2018年3月25日 - Comic Kritique, Kritique, Movie Kritique, TV Kritique
普通の人びと|武富健治「鈴木先生」坂元裕司「anone」

或る日、私はTVドラマを見たいと思っていた。2018年現在、テレビドラマと言えば『anone』であるのは、誰の目から見ても正しいだろう。その正しさは誰もが「面白いドラマを見たい」という純粋な希望から生まれたと思う。『anone』の最終回を見ながら私は、『anone』は回文になっている、ということに私は気付いていた。

ほぼ誰もが気付いていることをとくとくと語る人は、酔っ払いであり、酒場でとくとくと戯言を語るのが良いのではないか。そこで私は、日本酒をコップに注ぎこみ、具体的に何故回文にしたのか、を考えてみた。飲む前から酔っぱらっている。もしかして嘘っぽく笑うハリカは透明少女なのか…。

『anone』は物語中に頻繁に表れる言葉で、ハリカは会話の初めに「あのね、」という言葉で始める。「あのね、」というのは大体子供で、自分の言いたいことを伝えたいための「あのね、」なのが、言葉が上手く出てこないので「あのね、」と云うことになる。

「面白いドラマ」とは何か、をシンプルに書くと、狭い世界を永遠とちまちまとした人間の姿や行動を描写するところにある。その姿を描くことで人間同士の思想や関係性のあり方を自然と問いかけられるところがおもしろい、とコップ一杯を空けていた私は思った。

戦国時代が繰り返しドラマ化されるのも、日本という狭い世界の中で、日本一を目指す姿が描かれているからだ。戦国時代は狭い世界での謀略が描かれているのが特徴であり、戦国時代の英雄たちの姿と、じつは『anone』の登場人物たちの姿はダブっている。そのダブり方にリアリティがあるため、視聴率が伸びなかったのだろう。現実的に問題は解決せず、心理的及び合理性もないまま、ドラマが終わる。このドラマを見て憂鬱になるのは、日本に住むドラマを見るであろう層の誰もが「貧しさ」という間違いの中にいて、その間違いをかなり明確に描いてしまっているからだ。

橋本治は『貧乏は正しい!』って言ってたけど、「貧しさ」と「貧乏」は違うから。

なので、実はドラマの中心になる物語は小さな躓きのようなところから始まる。その小さな躓きから何らかの立ち直りを図ることがドラマの趣旨になる。

しかし『anone』は解決できない問題のみを提示してしまったこと自体が大きなテーマになっている。なぜできないのか。

そこで話は一時的に『鈴木先生』の話になるのだけど、鈴木先生は中学教師である。中学教師が現代で起きるあれやこれやを解決しようとすることがテーマになる。その問題はマナー、学生同士の交際、テロ、裁判と多岐にわたるのだが、これらの問題を鈴木先生は戸惑いながらも、何とか解決しようとする姿が描かれている。

内容自体は非常にくどい内容で、このドラマを見る私たちは鈴木先生の心の動きの逐一を知ることになる。そしてその内面描写は自分の生徒との妄想も含まれるのだ。この描写は実は、近代文学の登場人物の内面とほぼ同じような心の動きになっている。田山花袋の『蒲団』や島崎藤村の『破戒』とかを読むと、日本の近代的心理構造や近代性が海外の近代文学を誤解しながらも根付いて『鈴木先生』がその誤解と戦っているのではないだろうか、と考えられる。

例えば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の登場人物たちの苛烈な自己表現に、現代の日本人は不思議に思うところはないだろうか。一種の哄笑とは捉えることはできるだろうが、哄笑だけでは済まされない切実さが存在する。この「内面の深さ」は人の心に「何故?」を植え付ける。何故、カラマーゾフの兄弟達は、あれほど自分のことを主張するのか。そして何故自分の兄妹をあれほど憎むのか。そして何故私たちは、その憎しみを知る≒理解することが出来るのか。もし理解しているとすれば、我々もドストエフスキーと同じような体験をどこかでしているはずだ。我々はいつ、ドストエフスキーと同じような貧しさを覚え、虐げられたと感じたことがあるのだろうか。

『鈴木先生』を読む限り、我々は中学二年生の時に、ドストエフスキーと同じような体験をしている。そこで、貧しさや虐げられた自分に気付きながらも同時に、小川のような神様仏様≒アイドルの存在にも出会っているのではないか。

『鈴木先生』のくどさと現代性は、鈴木先生の切実さが決して、教師としてのあるべき姿を描いていないからだ。それよりも、教師の人間味あふれる姿が描かれている。教師も生徒に教えられる、という言葉がこれほどリアリティをもって描けた作品はなかなかないだろう。教師であるしかない『鈴木先生』は自分の教師としての「あるべき姿」を目指して働いているが、それが生徒にとって必ずしも「こうあってほしい姿」とは重ならない。

だからこそ、『鈴木先生』は自分を容認してくれる小川蘇美を必要としていて「かみさま」と呼んでいる。これはドストエフスキーの文学のテーマの一つであり近代文学のテーマの一つであった英雄思想と神の容認と共通している。

さらに映画『鈴木先生』ではテロリスト勝野ユウジと対峙することになる。「鈴木先生」の「教育」によって使い物にならなくなってしまった友人田辺満の復讐のため、小川蘇美をレイプしようとするのだ。しかし勝野ユウジの行動も小川によって阻止される。勝野は本当に「鈴木先生」によって滅ぼされた生徒であり、鈴木先生の教育は間違っているのか。

もし勝野が小川をレイプできたとする。勝野のテロは成功し、小川の自尊心は奪われることになるだろう。この場合は勝野の勝利になる。一方、小川がレイプされたとしても、その後小川が生き続けるとしても勝野はテロを起こすことが出来たわけで、この場合も小川の社会的な死は当然になる。しかしもし、小川がレイプされたとしても、勝野のテロが上手くいったとしても多分、誰も幸せにはならない。

もしテロが思想による犯罪であり、その犯罪が上手くいったとしても、誰も得しないだろう。この誰も得のしない行為を何故勝野はしたのか、に対する鈴木先生の回答は「世界を変えたい」という鈴木先生の傲慢さの告白につながる。鈴木先生の持つ傲慢さが正しいのは、日本の社会の在り方自体の正しさの根本が揺らいでいることが原因になっている。

この「傲慢であることの正しさ」は明らかに思想である。そして鈴木先生は革新的なテロ思想を持ったインサイダーなのだ。つまり鈴木先生を現代的な言い方をすればサイコパスなのである。ドストエフスキーの文学が難解なのは、ドストエフスキーと同じような体験をした人物が現代ではほとんどいないからだ。ドストエフスキーは個人の思想によって行動した結果、国に殺されそうになっている。

文学によって、ドストエフスキーはテロを起こした。武富健治は漫画によって『鈴木先生』というテロを起こした。

このドラマ及び漫画は面白いのでお勧めします。現代にこんな文学性を持った面白いドラマ(漫画)があるとは知らなんだ。

最後に『anone』のテーマ、「過去は何故解決できないのか」につながるのだけど、『anone』に登場する人々は過去に罪を犯した人がほとんどだからだ。そしてまた同じ過ちをくり返そうとしている。だからタイトルが回文の『anone」になっている、というのは早急すぎるか…。罪を犯したことを認め、刑に服したとしても、皆同じように罪人であるという自覚があるため、呪われた魂であることには変化はない。

この呪いをかけたのは誰だろうか。もし呪いを解く必要があるのならば、呪いをかけた人と会う必要がある。呪いを解くには順序が大事だ。タイトルが呪いではないし、くり返していることが呪いなのでもない。ただ、『anone』を見て、くり返していることや退屈であることを否定すること自体が、一種の呪いなのではないか、と感じた。

ははっ。(と私は絶望と傲慢のなかで笑う)で、なんでこの文章のタイトルが「普通の人びと」かっていうと、当然ドストエフスキーのデビュー作、『貧しき人びと』のもじりだ。タイトルが重要なのは、私がドストエフスキー及びロシア文学を理解する場合『死せる魂』や『罪と罰』というタイトルの苛烈さこそ、ロシア語の本質を伝えていると考えられるから。日本の場合、普通であることを「普通の人びと」と書くと伝わりずらいかもしれない。

何故なら普通であることの価値が下落しているからだ。なので「普通」は「Ordinary」が合っているはず。鈴木先生を英語に置き換えれば「Suzuki teacher」。でも内容からすると多分「educate」がいいのではないか。なら「Educate of Suzuki teacher」だろうか。

じゃまた。

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