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不死者・天野あい|桂正和・関和亮「電影少女2018」鈴木光司・中田秀夫「リング」

2018年4月13日 - Kritique, Movie Kritique, TV Kritique
不死者・天野あい|桂正和・関和亮「電影少女2018」鈴木光司・中田秀夫「リング」

人が死ぬことは自明の理であることは、何故だろうか。人間は自分の人生の中でいくつもの死を客観的に知ることが出来る。まず自分が食べている食事のほとんどは動物の死肉である。その死肉を食べることで人は自らの命を生きながらえている。
さらに、新聞やTVニュースでほとんど人が亡くなることが流れない日はない。それらの客観的事実によって人は自らも必ず死ぬことを人は知ることになる。ただ人は自分が死ぬことをほとんど理解することは無い。なぜなら、自分の死ぬ姿はあくまで客観的事実においてしか知ることが無いからだ。
その客観的死の繰り返しによる情報を集めることで、人の死は現象として成り立つようになる。現象とは、人間の死を心理的に容認するために人間が作り出した無意識の機構の一つである。
こんな無意識なんて誰でも知っている。知っていても言わない。言ったとしても誰も解決できないからだ。だからこその無意識なのであり、無意識を分析することはそれぐらい難しいことなのだ。
今回何故、これほど死について書いているかというと『電影少女2018』を見たからだ。果たして、いや実際関係ないかも知れない。ただ『電影少女2018』を見ているうちに、多くの人は死を思う(メメント・モリ)の状態になることはほとんど無いのではないか、という疑念を解決しようとすることが『電影少女2018』について、書き記すことと関係があるのではないか、と考えたからだ。
そもそも『電影少女2018』は桂正和原作のコミックス『電影少女』だ。『電影少女』は失恋をした少年(弄内洋太)がレンタルヴィデオを見ようと再生をしたらTVから人が出てきてしまったことから始まる恋愛喜劇の顛末を描いている。
そのレンタルヴィデオの再生中にTVから登場したのが天野あいである。彼女はレンタルヴィデオのヴィデオガールとして、失恋によって傷ついた少年を三か月間という縛りにあるにせよ、慰める目的で作られた人造人間である。そして、主人公の少年は、ヴィデオガールと共同生活を送ることになる。
この物語の設定は普通に、失恋した男がアダルトヴィデオを見ようとしたら実物が出てくる、という妄想的物語が実現されていることと強い関係がある。さらに人間の持つ無意識を人がどのようにとられているか、と関係がある。
『電影少女』は召喚ものと言えるかもしれない。『電影少女』の中では天野あいはマスコット的立場を守っているが、彼女の目的は主人公を慰めて、癒すのが目的だからだ。つまり、天野あいは人間ではありえない。さらに天野あいという人間以外の存在に対して、対等に接することが出来ることも『電影少女』を召喚する条件の一つである。なので主人公(弄内洋太)がピュア(純粋)であることが『電影少女』召喚の唯一であり最大の条件になる。

ヴィデオといえば近代的家電製品であり、かつてニーチェは近代的家電製品が生まれたことと「神の死」を結びつけていた。これは神という存在がいわゆるオカルトであり、イエス・キリストが神の子であるということ自体がキリスト教が作りだした一つのまやかしでありシステムであることを本質直観した詩人の言葉なのだろう。
そして、ヴィデオから『電影少女』として召喚された天野あいは悪魔か天使かしらねども、ヴィデオテープが召喚道具になっているとすれば、現代を生きる全ての人は、何らかの近代的呪術(ヴィデオテープもその一つだ)の中で生きているといっても過言ではないだろう。
漫画『電影少女』の最終回では電影少女として召喚された天野あいは「ほんものの人間」として弄内洋太と人生を共に歩み始めることになる。つまり近代的呪術によって召喚されたヴィデオガールは、悪魔として、弄内洋太の魂を食らうことをなく、一方天使としても、弄内洋太の守護天使となりもしなかった。人間として共に人生を歩む、という在り方は現代に生きる人の無意識に根差した近代的呪術がもたらした結末の一つと言えるだろう。
そして、2018年『電影少女2018』の形で実際に映像化されて復活した天野あいは、90年代に弄内洋太に召喚されたときの記憶のままの天野あいだった。

さて、ヴィデオに埋め込まれた呪術といえば、思い出すのは『リング』の貞子であろうことは周知の事実だ(誰もが「きっと来る」と思い込まされた映画だ。でもエンディング曲の『Feels like Heaven』を最後まで聞いた人はどれだけいるだろうか)。90年代にそのヴィデオを見たものに死をもたらす呪いをかけた貞子と見たものの傷ついた心を癒すため作られた天野あい、このキャラクターは表裏一体の形をとっていると思われる。
そこで、少しだけ、貞子について考えていきたい。貞子は超能力を持っていた少女だった。その力は「千里眼」と呼ばれている。物体を透視して、その先の存在を見ることも出来たそうだ。一種の未来予知とも言えよう。
そして、その強大な力のせいで、貞子は芸能界やTVで活動をすることになった。しかし、この世にはオカルトや強大な力をあえて、誤解して否定することを生業にする人々がいる。現代的に価値を与えるならばビジネスパーソンだが、客観的に言えば他人に疑いの目を向けるだけの単なる野次馬でしかない。超能力も能力の一部でしかないので、常に同じようにコストパフォーマンスを発揮できるとは言えないだろう。才能というものは、理解され辛いし嫉妬の対象として捉えられやすい。
その結果、貞子は芸能界はおろかオカルトの世界からも追放されてしまった。それは彼女が初めから本物の超能力者、つまり人知を超えた力を持っていた、ただの女性だったからだ。つまり貞子はアイドルではなく、一つのキャラクターに過ぎなかったのだ。
一方『電影少女』の天野あいはあらかじめ人間ではなく、最後に人間になる。時間軸においてはほぼ逆の物語を描いている二つのストーリーの中で貞子は自己を分裂させるため、ヴィデオテープに自分の怨念を吹き込み、天野あいは利用者(弄内洋太)のためだけに人間になることを望む。

今回の内容は人によっては世迷い事に聞こえるだろう。もしテーマがあるとすれば『リング』にはエロがほとんどないため、登場人物たちは現象の答えにはたどり着くことが無く、ただ現象を説明しようとするだけに留まっている。その現象を「科学的」「オカルト的」「サブカルチャー的」「過去的」「キャラクター的」「映画的」に紐解くことで、さらに新たな謎が生まれる。つまり『リング』の元の謎である「都市伝説」や「恐怖」の根源について、触れ近づくことは無い。確かにリングやらループやらフラフープやら輪投げやら輪ゴムやらドーナツやらイカリングやらでも物語が作れそうな勢いである。
一方、『電影少女』は人間同士の密な関係と悪について、かなり踏み込んだ物語を展開している。ただこちらもやはり「何故一方が悪をなし一方が善をなすのか(※)」の問いに答えは無いし近づくことも無い。システム自体を悪として乗り越えようとする姿が描かれているが、それはあくまで主人公が選ばれた人間であることや才能があることを読者が無意識に理解しているからだ。

(※)……『電影少女』って善と悪が描かれているって考えていない人がいるかもしれないので一応考えとこう。それは恋愛をテーマに描いているから。でも設定を見るとモテなさ過ぎて、好きな相手が自分の親友が好きで、好きな相手と親友の恋愛を応援してしまう主人公がアダルトヴィデオを見る姿を描くということは恋愛弱者として主人公を描いているわけで、恋愛に関して実は強者と弱者がいることを示している、で弱肉強食って人間の当たり前の考え方って思いがちなのは、弱肉強食は強い人間にとっては楽な考え方だから。さらに現代では社会においても色々とプロ化(ビジネス化)されているので、恋愛も勝手にプロ化していたりする。つまり善悪ではなく「正しい」と「悪い」を対立させる考え方が流行しているのが現代である。なので生物の根源的欲求として「弱肉強食」は正しいにすると「弱肉強食」を否定的な意見は人としては善人だとしても「悪い人間」として見なされる。相手が自分の立場を「正しい」と捉えているか「悪」と捉えているかで見方自体が変わっていく。
しかしもともと恋愛は弱肉強食や正しさでは成り立っていない。そこに善と悪の思想が入り込んでいるのが『電影少女』だったりする。なので善でありながら弱い存在である「天野あい」や「弄内洋太」をいかに救うかが『電影少女』という物語の骨幹になっている。

 

物語や思い出は逃げ場所ではないはず。ただ一時的な娯楽があり、明日への希望(もしくは妄想や幻想かも知れないが)を植え付けようとしているのが『電影少女2018』なのだった。怖い話やね。

恐怖と才能。この二つが無ければ人間は生きることが出来ないのではないか。そして、恐怖を乗り越えるのは勇気であり、勇気が無ければいくら才能があっても腐るだけである…がんばろ。
あと『電影少女』は今では名作と言われているが、天野あいが不憫すぎる物語になっている。現代の『電影少女2018』でもやはり不憫な物語なのは自明の理だ。天野あいのように何のとりえもない存在が価値を持ち得るのが、人を応援することであるということを容認する社会の機構の気持ち悪さが絶妙なのが『電影少女』なのだ。美人とか可愛いとか、そしてそれに価値があるとかないとか。人間は生きているだけで十分すぎるほど十分の部分がないがしろになっているのがサービス業の問題点だ。
正直、『電影少女2018』を面白くないと私は感じたのは「何故、今このドラマを作ったのか」が分からないから。うまく作ってあるのは分からないでもないし、説明もできるけど、それでもなおかつ「何故、2018年の現代に『電影少女』をドラマ化しなくてはならなかったのか」の理由が見えないし、理解できないからだ。リバイバルを否定する気もないし、アンチに対して説明出来れば売れる商品は生まれるかもしれないけど、作品としての説得力が弱すぎる。
普通に『電影少女』という作品の設定のニュアンスに対する嫌悪感のほうを大事にしたほうがいいと思うよ。

じゃまた。

ちなみにタイトルの「不死者・天野あい」なのだけど、不死者は死なない人のことを指す。ヴァンパイアとかね。人は忘れられなければ死なないということを聞いたこともあるが、死なない理由は天野あいが『電影少女』から『電影少女2018』まで約29年程立っていながらも天野あいは相変わらずの容貌だったからだ。タイムスリップしたのは天野あいか、それとも私たちなのか。『電影少女』がオカルトながらも一応近未来物語だったのに『電影少女2018』が近過去物語になっているのは『電影少女』の影響力がそれだけ大きいってことだろうか。き・る・は・み・か・ら・む、き・る・は・み・か・ら・む、き・る・は・み・か・ら・む、と三度唱えてみる。……何も起きないね。

じゃまた。

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