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アリス・イン・マーダーケース|不思議の国のアリスミステリーアンソロジー「アリス殺人事件」

2018年4月18日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
アリス・イン・マーダーケース|不思議の国のアリスミステリーアンソロジー「アリス殺人事件」

『アリス殺人事件』というタイトルから想像できるのはアリスという名前のキャラクターが殺された、と考えられるが実はそうではない。『不思議の国のアリス』という小説が殺された、ことを指すらしい。
どういうことだろうか。そこで『アリス殺人事件』の内容に触れてみる。
この小説には有栖川有栖、宮部みゆき、篠田真由美、柄刀一、山口雅也、北原尚彦の六人のミステリ作家による『不思議の国のアリス』についての解釈が描かれている。
その中でも山口雅也さんの『不在のお茶会(河出文庫「アリス殺人事件」所収)』を俎上に挙げて考えてみる。
『不在のお茶会』は山口版『不思議の国のアリス』のようなものであり(当たり前だ)、気狂いお茶会に参加しているキャラクターが【私】について思考実験をしているシーンが描かれている。そしてその解釈は精神分析を多用してイメージが作られていき、結果的にそれらは脳内での戯れに過ぎないことが示唆されて、終わりに迎える。
この『不在のお茶会』は一種のミステリー・ゲーム小説ともいえる内容であり、登場人物たちが皆、一人の人間の脳から生まれたキャラクターに過ぎないことが示唆されている。この小説と似たような構造の小説を脳内で探すと、奥泉光の『プラトン学園』がある。ゲーム的に物語が進むことで「無意識の冒険」として物語が構造化されているからだ。さらに似たような作品にプレイステーションのゲーム作品『Forget Me Not ~パレット~』がある。こちらは記憶を失くした自分が少しずつ新しい自分に出会う物語である。記憶が回復していくことで行動範囲が広がり、認識視野も広がっていく所がRPG的であり、実験性が高いゲームである。
しかし、自分探しの物語は『不思議の国のアリス』には似つかわしくない。何故ならあくまで『不思議の国のアリス』自体がアリスの主観による冒険に過ぎないからだ。
『不在のお茶会』が何故『不思議の国のアリス』を構造化しているか、というと、”私”をテーマにしながらも、あくまで客観的な”私”を追求せず、”私”の視点からの登場人物の内面や思考の骨幹がぶれさせないところにある。論理的に”私”を追求するために、一切の客観的視野を取り入れないという離れ業を行うことで、『不思議の国のアリス』自体が作家の脳内にしか存在しない物語、つまり実在のアリスとは一切関係のない物語であることを読者が知るように仕掛けられているのだ。
だからこそ『不在のお茶会』はミステリーとして成り立つ。
ルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』がミステリー及び冒険小説であるのは、一見アリスの主観で描かれながら、キャロルの脳内言語冒険が描かれているところによる。
さて、私は『不思議の国のアリス』は山形浩生訳が優れていると思うが、それには理由がある。私が読んだ他の翻訳の『不思議の国のアリス』は訳が文学的過ぎるからだ。そしてその翻訳の文学性によって私は『不思議の国のアリス』を誤読しているのではないか、と感じられたからだ。
当然だが私は『不思議の国のアリス』の内容をほぼ理解しているわけではない。もしかしたらだけど、翻訳者も完全に『不思議の国のアリス』を理解しているのではなく、あくまで翻訳者としての解釈が入り込んで描いているはず。そうでなければこれ程の数の翻訳が出回るとは考えられない。例えば『不思議の国のアリス』にはいくつかの詩が挿入されているが、その詩を私たちは【ナンセンス詩】として捉え、理解している。
しかし、もしかしたらもっと意味のある詩であり、ただ私たちが理解をすることが出来ないだけなのではないだろうか。多分理解するには当時の教養あるイギリス人と同じくらいの文化的歴史的知識が無ければ、理解することは難しいのかも知れない。もちろん、ありていに全て完全に理解することは出来ないのであくまで推測に過ぎないけれども。

ただ、私の理解する『不思議の国のアリス』が脳内言語の冒険であることがやけにしっくりくるのは、物語の中にいるアリスがほぼ鏡の中にいる【もう一人の私】の役割を果たしているからだろう。もう一人とは物語内で、いくつもの問い掛けを持っている主人公と言う意味である。大人になると人は問い掛けをすることが無くなる。それは経験則から物事を捉えるからであり、その捉え方で十分であることを知るからだ。

しかし、アリスはキャロルが生み出した、いわば永遠の少女であり(小説内の登場人物の為。実在のモデルになったアリスとは別人)、彼女の問いかけはだからこそ、一見ナンセンスでありながらも読者にとって重要な意味を持つ詩となりえるのだろう。物語に閉じ込められた少女は永遠に若いままで、私たちはその本を開くとき、また自分に出会うことが出来る。それは悲劇ではあるけれども、一方でこの世に何故物語が生まれたのか、を知るためのきっかけにもなるのではないか。

物語の生成の鍵が解かれれば誰もが物語の中で自由にふるまえる。その世界はあらゆる罪や罰から解放された世界のはずだ。その世界は明らかに時間の制約から解き放たれているからだ。物語はリアリティをあればあるほど、時間の制約がある。読者も時間の制約がある。では誰が物語を必要とするのか。それは孤独を必要とする時期が誰にでもある、という誤解から生まれている。

だから人はいくらでも物語を誤読できる。誤読するから新たな謎が生まれる。今回は『不思議の国のアリス』が殺された。犯人は六人いる。一体だれが犯人だったのか。私は山口雅也が犯人だと思ったが、人によっては違う人を犯人にするだろうし、いずれ読者のなかにも『不思議の国のアリス』を殺したくなる人もいるだろう。動機なき殺人、連続殺人、コピーキャット、サイコパス殺人、金銭目的、テロリズム、事故、リベンジ(復讐劇)、色々理由もつけられるだろうから、私もいずれ『不思議の国のアリス』を殺害したく思う。

と、なんとなく最後にホラーの雰囲気になってしまった。でも本を擬人化する考え方はトランプの女王が出てくる『不思議の国のアリス』の世界じゃ良くあることだ。

じゃまた。

※よく考えると本を殺そうとする行為は新たな解釈を生み出す行為にすぎない。なのでトランプの女王という存在にもモデルがいるのではないだろうか?

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