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わすれないで|峠三吉「原爆詩集」

2018年6月24日 - Kritique, Literature Kritique, Poetry Kritique
わすれないで|峠三吉「原爆詩集」

日本はかつて戦争を行って負けたらしい。らしい、と書いたのは私自身戦争を体験したことがなく中沢啓治著の漫画作品「はだしのゲン」を読んで怖いと思った記憶しかないからだ。

それから幾数年経った今、いまだ日本は戦争をしていない。これはなかなか凄いことだと思う。他の国ではテロが起こったりしているし、隣の北朝鮮からはロケットが飛んできたりする。「はっぴいえんど」の「あしたてんきになあれ」という楽曲に「ときどき戦闘機が落ちてくる 街に今日は朝から雨がしとしと」という詩がある。

私はこの詩から第二次世界大戦で原爆が落ちた土地を想起した。そうして「あしたてんきになあれ」という歌詞から、明日に対する希望と絶望を感じた。「はっぴいえんど」の歌詞の世界がシュルレアリズムなニュアンスを齎すのは、私の中にあるのが「戦争」と云った具体的なものやイメージではなく、それに対する何らかの欠落を感じているからだろう。

そうして、その欠落の部分に「あしたてんきになあれ」は響くのだ。

そうして峠三吉の「原爆詩集」である。この詩は第二次世界大戦中唯一被爆した国である日本国といった大上段に構えた意見のようなものではなく、もっと生々しい原爆についての詩だ。何故この詩がこれほど生々しいのか。それはこの詩のなかでは何度も原爆が落ちているからだ。

何故そう感じるのか。それは原爆で死んだ人たちに対して、未だ誰も確実な理由を説明できないし、出来ていないからだ。そうして原爆を受けた人が生きているうちに「何故自分たちは原爆を被爆して死ななければならないのか。」という説明をしていないし、しなかったからだ。

人によってはアメリカというシステムのせいだ、というだろうし、日本が戦争に参加したからだ、ともいうだろうし、人によってはその時広島や長崎にいたからだ、というだろう。まるで悪い事故にあっただけのように。その後、日本人は酷い悪夢を見続けることになるのだけど。

その後、まだ誰も(というかどの国も)原爆を使用してはいない。不思議な事だ。原爆は戦争の兵器としては酷すぎるのでルール以前に倫理に部分で躊躇する人(というか国)が多いのだろう。

しかも原爆は環境を破壊する兵器なので、戦争という土地を侵略するルールのゲームには向かない兵器なのだ。それを落としたら、侵略した側も土地を利用できなくなるからだ。

さてアメリカは戦争というシステム上、原爆を落とした。原爆によってひどい目にあった日本人たちは、その後どうしたか。

日本人は、というか峠三吉は「原爆詩集」を書いた。その詩の「序」には「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ」と書いてある。

そうしてこの言葉はアメリカ語に訳すなら

「Remember Father. Remember Mother. Remember Old Man. Remember Child.」

だろうか。

「Return Father. Return Mother. Return Old Man. Return Child.」

だと存在するものを返してほしい、となってしまう。 既に失われたものなので「Remember」の方が適当な気がする。それから複数形「Father」を「Fathers」にした方がよいかどうかも考えたけど、詩自体が「ちちたちをかえせ」と書いてないので、あえて単数形に訳してみた。

細かいかも知れないが、失われたもの(正確には奪われたものだが)に対して、どのようにその言葉を受け止めるか、は結構大事だろう。そうして「原爆詩集」に関しては、そのまま受け止めることが大切な気がする。いわゆる行間を読む必要が無い詩だ。

それはこの詩が初めから世界レベルで読みえる内容とテーマを保持しているからだ。「原爆」をテーマにしているからではなく、そのことで何が起こったか、を詩的言語で正確に書こうとしているからだ。その意思がこの「原爆詩集」からは感じられる。

戦争を体験したり原爆を体験していないと(当然、現代を生きるほとんど若者は体験していない…と思ったら被曝や原子力の被害自体は福島の大津波でなされた人たちがいた。忘れていた)、そのことに対する想像力は格段に落ちる。

怖いのは自分の想像力が無い事を知らない人がいることだ。この想像力の欠如(この言葉自体が想像力が無い感じがして使いにくい…)こそが、私たちがある程度他人と平気で関われる理由なのだが、じゃ、常に相手を思ったり立場を慮って接したらいいか、というとそれもヘイト自体を覆い隠す結果を招くだけだと思う。

多分、人は幾度も歴史の中で、戦争をしてきた。私は体験していないけど、かつては火を放って焼き殺したりもしていただろうし、マシンガンで撃ちまくって殺すこともあったろう。さらに焼夷弾を落として集団を焼き殺すこともしてきた。

そうして、人は自分のしたことを忘れる。その犯罪を行ったのは「私ではない他の”誰か”であり、私は何もしていない。」と嘯く。そうして未来に希望を持とうとする。「あしたてんきになあれ」と。

でも自分が殺したのではなくても、それはきっと自分が殺したのだ。それこそが戦争であり、多くの人が戦争に参加したのだ。私は偶然時を違えて戦争には参加しなかったけど。かつて自分が戦争に参加して、人を殺したのは確かだろう。まるで記憶をねつ造しているみたいな書き方だが、もし歴史に学ぶとすれば、私も誰かから生まれた存在であり、その誰かは戦争に参加したかもしれなくて、そうして誰かを殺したから今の私が存在するのだから、私が誰かを殺したことにしても良いのではないだろうか。

過去を変える必要はない。私は結局戦争には参加しないし、今後もしないだろう。それは日本はとりあえず平和だからだ。とするなら「あしたてんきになあれ」と嘯く必要もない。

峠三吉の「原爆詩集」は読むと、前向きに生きようという気持ちになる。それは日本はやはり意外と平和だからだ。軽々しく平和なんて書くと、色々言う輩がいるかも。けど、私からしたら(誰からしてもきっと)やはり平和だ。峠三吉の「原爆詩集」を読めて感想をブログに書けるなんて、平和としか言えないじゃないか。

峠三吉の「原爆詩集」を私は薦めます。というか私が薦めなくても、優れた詩集なので、読んでみてください。図書館とか近所の本屋さんで注文すれば、ありますよ、きっと。

それから、この「原爆詩集」の「あとがき」には「一九五二、五、一〇」と記述してあり著者の名前「峠三吉」と書いてある。ということは「原爆詩集」は1952年5月10日以前に書かれたものなのだろう。

とすると当時、被爆した人たちで、まだ生きていた人も多かっただろう。私は現在からしか読めないので、あくまで現在から過去を照射して読み解いてしまう。しかし現在でも優れた詩集だと思えるということは、以前に読んだ誰かも、そうしてこれから読む誰かも、きっと何かした思うものがある詩集なのだろう。なんだかかしこまった文章になってしまった。

じゃまた。

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