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名言と共に生きる男|太宰治「走れメロス」「畜犬談」他

2018年6月28日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
名言と共に生きる男|太宰治「走れメロス」「畜犬談」他

太宰治を優秀なコピーライターであると看破したのは北村薫著『太宰治の辞書』であるが、なるほど太宰治ほど名言に彩られて生きた作家は居ないだろう。例えば『二十世紀旗手』の冒頭に掲げられた「生まれて、すみません」という言葉。太宰治は自分の処女作品集に『晩年』と名付けていた。非常に振るったタイトルであり、自分の文学で世の中を変えてやろう、という気概が感じられる。

『晩年』に収録された作品『思い出』『魚服記』(共に新潮文庫「晩年」所収)等現代人が読んでも楽しめるクオリティを誇っている。その後『人間失格』や『斜陽』を書く作家と同一人物とは到底思えない。そのくらい初期の作品は明るいし、太宰治自身が未来に希望を持っていたことが分かる。

しかし、作家として世に出た途端、東京新聞の入社試験に落ちて自殺未遂。自分の妻の不貞行為を知って自殺未遂。ただ小説を非難された時だけはきっちり反撃する。それでもパビナール(鎮静剤)中毒になり、精神病院に入院。この時期に書いていたのが『二十世紀旗手』に収められているのだが、『晩年』と『二十世紀旗手』は海外のロックバンドNIRVANAの『Nevermind』と『In Utero』のような関係にある。要するに太宰治は小説家として才能がありすぎたのだ。

太宰治の小説群をあえて分けると、他人の口を借りて自分の生活を赤裸々に描いた小説と自分の思想を物語の中に組み込んだ小説に分けられる。その中でも『走れメロス』は後者に分けられるが『畜犬談(新潮文庫「きりぎりす」所収』はどちらにも入らない。エッセイ風の小品、所謂マイナーポエットのジャンルに入る。

太宰治の小説は完成していなかった。30代後半になって、作家として自分の書きたいものにたどり着いている。読者からするとそのように読める。『人間失格』は『思い出』や『HUMAN LOST(新潮文庫「二十世紀旗手」所収)』の子供時代の自意識をテーマにした作品をより深化させ、太宰治の文学のテーマの一つ、「他者に受け入れられない自己」がより明確になっている。さらにもう一つのテーマがたどり着いている『斜陽』は太宰治が描き切れなかった『火の鳥(新潮文庫「新樹の言葉」所収)』等の女性の権利の復活や『トカトントン(新潮文庫「ヴィヨンの妻」所収)』で描かれていた権威主義の崩壊と虚無性がテーマになっている。

読者の中には太宰治が何故、あれだけ自意識駄々洩れの告白体小説を描きながら、女性及び他人の権利及び人生を大事にして、価値を見出そうとしているのか不思議に思うだろう。一種の自己犠牲精神と他者への愛からイエス・キリストを想起する人もいるだろう。と、いうか実は太宰治自身が、どこかで自分の事をイエス・キリストと似通った部分を持っていると思っていたのだ。

太宰治のユニークさは幾度も自殺(未遂)をしながらも、生きることへの希望を捨てていなかったことだ。そうでなければ、これ程の小説群を書き続けることは出来なかったはずだ。実は太宰治の小説には文句もつけやすい。それは太宰治の小説の登場人物の殆どが弱いからだ。そうして弱さを嫌う人は太宰治の文学の真価には触れることが出来ない儘だったりする。当然弱さを知っている人も同じだ。

太宰治の文学の魅力は、読者を楽しめるためにあらゆる工夫を凝らした小説である、ということだ。読者の視点に立っているのだ。何故立っていたのか。それは太宰治が戦争を嫌い、戦争が終わった後、どのような面白い魅力的な小説が書けるか、ということに希望を持って生きていたからだ。太宰治は常に”今”に絶望しながら、それでも常に生き続けていた。戦争の中で無頼な生活を続けながら、自意識を持ち続けていた。この弱さこそが太宰治の魅力だった。

だから、太宰が死んだとき、『グッド・バイ』というユーモア小説を書いているのを知って、誰もがそこに意味合いを見出そうとした。太宰治自体は「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と遺していたそうだが、彼は自分の人生に絶望しながらも、そこに何らかの意味を見出そうとしていた。妻には裏切られ、一般的な就労も叶わない。友人には謗られる。唯一希望を持っていた文学さえ、尊敬する芥川龍之介の名前が冠される芥川賞を受賞できなかった。

私程呪われた人生を歩んでいる者はいまい。たしかに現代での評価に比べると太宰治の人生は超悲惨だ。このような悲惨さに、人は「お前にも問題はあるんじゃないかね。」と言ったりする(ということが『人間失格』には書いてある…)。『人間失格』を読んで「暗い。」という人は残念ながら文学を知らないのだろう。

面白い物語しか欲しない人は、残念ながら文学を知らないのだ。実は文学には明らかに魅力があり、その魅力こそ「物語る」ということに尽きる。物語を求めるのではなく、物語が何故生まれるのか、について考えることの甘美さに彩られることこそ、文学の毒であり魅力なのだ。

そこで『走れメロス』は「メロスは激怒した。」から始まる物語である。もともとドイツ人の詩人、フリードリヒ・シラーの『人質』を元に描かれた物語である。悪逆非道な王を友情の力でねじ伏せるメロスが描かれているのだが、太宰治が描いたメロスは実は大したのんびり屋さんだった。だがそののんびり屋を正義の使徒として太宰治は描こうとしたのだった。

ここには太宰治の第三の文学観である、正義が見え隠れする。そうしてその正義は革命の為の正義であり世の中を良くしたい、人の役に立ちたいという太宰治の持つ作家としての良心に繋がるのだった。つまり【自意識の地獄】と【他者の権利】を繋いでいたのが【良心】であると読み解ける。

太宰治は【良心】を持ち続けた作家だったのだ。そうして小説家としての【良心】が太宰治に小説を書かせる原動力になっていた。その為彼の小説の登場人物はみな、弱い。お互いが傷つけあわないようにしていたりする。【自意識の地獄】を抉り出していた『人間失格』を書くことで、太宰治は如何に自らが傷ついていたのかを知ったのだろう。そうして『HUMAN LOST』等『二十世紀旗手』に描かれた小説群によって暴かれた太宰治のこころの傷は二度と元には戻らない、と太宰治が判断したのだ。

十何年間、作家として第一線で活躍して、流行作家になり、作家としても評価されつつあったが、自らを救うことは出来なかった。そうして誰やら知らない女給と心中をしてしまうわけだが、よく考えると太宰治は自分にとって困難な壁にぶつかる度に自殺未遂をしている。だから、今回の心中も未遂になることをどこかで見越して行ったのではないか、と邪推することが出来る。

ただ、自殺にせよ心中にせよ、死ぬ気が無かったら行わないわけで、太宰治はやはり死にたかったのだろう。ただ本当に死んでしまいたいと思っていたのかは別で、太宰治特有の思考が、どこかでいくら自殺しようとも生き返る自分を想像していなかったとは思えない。

この強烈な自意識過剰というより自意識のぬるい地獄こそが太宰治なのだ、多分。で『走れメロス』が名作かというと子供向けの太宰治入門書としては最適だと思う。否定する気はないが、正義や友情を真正面から良く描けたな、とあきれる人も当時はいただろう。

しかし名言に彩られた人生ゆえ、行動するメロス的人間に憧れる太宰治に共感する人も多かろう。自殺するぐらいでしか世に訴える行動力の無い太宰治は正面切って自らの感情をぶつけられるメロスに実は憧れていたんじゃないだろうか。『桜桃(新潮文庫「ヴィヨンの妻」所収)』とかも結局「子よりも親が大事」と呟いて、子の分の桜桃を食べてしまう親の姿が描かれている。生きる為や友情の為や妹の為、3日間死ぬ気で精いっぱい生き抜いたメロスに共感する人の方が多いだろうけど。

太宰治が、自分とほぼ真反対の人間であるメロスを肯定的に書けるということが小説家として、破格の才能であり、その才能を太宰治は持っていたことを知ってほしいのであえて『走れメロス』を紹介しました。

じゃまた。

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