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パンク×(カケル)侍≒(イコール)お前はもう死んでいる。|町田康/石井岳龍「パンク侍、斬られて候」

2018年7月1日 - Kritique, Movie Kritique
パンク×(カケル)侍≒(イコール)お前はもう死んでいる。|町田康/石井岳龍「パンク侍、斬られて候」

パンクと侍、一見相いれないこの二つの要素を取り入れたのが町田康著『パンク侍、斬られて候』らしい。らしいと書いたのは、この小説は町田康の中でも人気がある作品だが、評価自体は結構難しい小説だからだ。この小説には町田康の時代劇趣味が入り組んでいる。藩内の闘争、新興宗教、超人的能力を持つ登場人物、ナンセンスな設定。

時代劇にはある程度メソッドや設定があり、その部分からはみ出ないように大体の時代劇作者は書いている。歴史小説とは違い、日本の時代劇の場合は前近代が舞台になっており、殆どの登場人物がちょんまげを結っていし、羽織袴に着流し、女性だったら日本曲げを結っていて、お歯黒だったりする。その時代特有の美意識や自意識があり、それらは殆ど合理的に説明できるのが、日本時代劇の特徴である。

町田康の『パンク侍、斬られて候』はその時代劇特有の美意識と自意識自体が崩壊した舞台を設定している。そうして美意識と自意識が崩壊寸前の美などというものではなく、既に崩壊しているため、文体も喋り言葉も何もかも、てんでばらばらになっている。現代的に言えばスラム、もしくは世紀末、というやつだ。

そのスラム化した時代劇をテーマにしている為、文体自体も崩壊している。ここがこの小説の肝で、そもそも時代劇に興味が無いと、そんなこと考えないし分からないだろう。町田康の小説を好む人は文学趣味が強い人が多いので、町田康が仕掛けた小説のたくらみに「にやり」と、ほくそ笑むだろうけど、そもそも文学や町田康に興味が薄い人は『パンク侍、斬られて候』というタイトルを見ても「なに町田康と言う人はふざけたタイトルの小説を書いているのだろう」ぐらいにしか思わないかもしれない。

なので、殆ど本を読まない人に『パンク侍、斬られて候』を薦めるかというと、多分薦めない。もし薦めるのならデビュー作の『くっすん大黒』か『告白』を薦めるだろう。まだあくまで好事家の為の小説という枠を乗り越えていないような気がする。でも当時売れっ子だった町田康が書いたことには意味があるだろう。

そうして物語のほうなのだが、先ほど言ったように物語に筋書きのようなものは殆どない。会話劇が殆どなのに、会話自体が殆ど成り立っていないディスコミュニケーション状態が続く。お互いが自分の事しか考えていない為、自分に有利になるようにしか会話をしないのだ。なので登場人物たちが現代的なビジネスマンみたいになっている。丁々発止というより社畜的なキャラクター設定になっているのだ。一見自由に喋っているようなキャラクター達も、何故自分たちがそのような行動言動をするのか、不思議に思う節がある。

読者である私たちも、彼らが何故このような喋り方をするのか、ある程度説明は出来るだろうけど(残念ながら読者の殆どは感情移入できないだろう。そのくらい神話的・超人的キャラクターが登場している)、けど私たちが理解して説明すればするほど、その説明や理解から、彼らの感情がすり抜けていくような感覚に陥る。この感覚ってシュルレアリスム小説を読んだときに感じる読書感覚と似ている。ジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』とか。登場人物のキャラクターは思考が明晰であり文体が明晰なのは、文体と登場人物の思考が一致しているからだ。

で、町田康はこの破戒的文体を意識的に採用したように思えるが、一方で文体から物語が派生したようなニュアンスもある。卵が先か鶏が先か。とあえて言えば町田康の場合は文体が先らしい。では何故時代小説にこの文体を採用したのか。それは町田康が時代劇が好きだからだ。もし「時代劇が自分の文体によって彩られていたら」という仮定によって『パンク侍、斬られて候』は成り立っている。そしてその文体はパンク文体によって成り立っている。

パンクとは何か。それは『時計仕掛けのオレンジ』のパンク文体を模した破壊的文体なのだ。そうして『パンク侍、斬られて候が』何故時代小説になったのか、こそが町田康のセンス・オブ・ワンダーでありサイバーパンクとなりうるのだ。

町田康は猿が話をするためのリアリズムを描き出すために今回の舞台を設定した、と書いている。つまり猿が一番賢い(言語的)存在であることを描く必要が町田康にはあったのだ。では『パンク侍、斬られて候』の登場人物はみんな猿より愚かなのだろうか。彼らは愚かというより自分の行動を言語化出来ない人が殆どで思ったことをそのまま行動に移してしまう人が殆どなのだ。

侍は意外と言語を行動化してしまう。そこに生まれる行動は変な行動ばかりで、どう考えても喋る猿より愚かに見える。じゃ猿が珍妙な行動をしないかというと、実は猿はグルグル回転を始めて一本の綱になってしまう。明らかに人間の見識を超えた行動であり、理解不能だ。その理解を超えた行動は本当に人間には理解できずに、シュルレアリズムでさえ無い。では一体何なんだろうか。これは猿なのだ。確かに猿は人間には理解しがたい行動をする。その理解しがたい行動がたまたまグルグル回転をして一本の綱になる、という天変地異やアポカリプスを想起させる行動なのだ。

物語の終わりに主人公の牢人は自らが「パンク侍」であることを告白する。そして女に一緒に旅に出ようと誘うのだ。しかし女に刺されてしまう。主人公には自分が刺される理由が分からない。何故刺されるのか。消えていく意識の中で、女が実は自分が殺した男の娘だと告白する。主人公はいまさらそんなこと言われても知らないのだ。何故なら既に自らが「パンク侍」であることを告白しているからだ。

主人公に分からないのは、猿と女だった。何故猿が喋るのか。何故女が自分を刺すのか。というか今、女に刺されるとすれば何故前もって女は自分を刺さなかったのか。何故このタイミングで刺すのか。猿も良く分からないタイミングで喋るし。どうすればいいのか。自分の行いを反省することが出来ればもしかしたら自害する道を選べたかも。けど一切の反省することもなく、生きていこうとする主人公の姿は『時計仕掛けのオレンジ』のアレックスと重なる。

今までの反社会的な生活を無視して、容易に大人になろうとするアレックスはどうやら大人になれそうだけど、掛十之進は反省することなく生きようとして斬られてしまう。既に掛十之進の世界は崩壊していたのだ。だから誰にも救われない。そうして救わないのには理由がある。いやまったく理由が無くても人は簡単に殺すし、意味もなく殺害をする世界からは容易に逃げられない。牢人である掛十之進は永遠に反社会的なブラックな世界に閉じ込められたのだった。いや世界からフェイド・アウトされた、という言い方も可能か。

今回、映画『パンク侍、斬られて候』を見て、日本にパンク文化というものが存在することを再認識するきっかけになった。そうして再度町田康著『パンク侍、斬られて候』も読んでみよう、と思いその備忘録代わりに書いてみた。つまり未だ読んでいないけどかつて読んだ本の話でもあった。で、また読んでみます。

じゃまた。

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