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家族という名前の虚構|是枝裕和「万引き家族」

2018年7月9日 - Kritique, Movie Kritique
家族という名前の虚構|是枝裕和「万引き家族」

泥棒としての家族


この文章は万引き家族に対する考察になります。この映画の主人公、治は日ごろから万引きをして生活をしています。もし、自分の父が泥棒を生業にしていたらどうしようか、とありえない想像をしてみる。あくまで例えです。

例えば伊坂幸太郎の登場人物のようなプロの泥棒が父親だったら。友人に説明するのが困難になるだろう。泥棒とは職業ではないはずで、一言でいうと無職ということになる。働いていないお父さん。いわゆるニートうさん(※ニートと父さんをつなげた造語)なわけで、子供とすれば説明が出来ない。さらにニートうさんは自分に泥棒のやり方を教えるのだ。盗む前に自分に暗示をかける。その暗示をかけることで瞬間にファンタジーの世界に入り込むことが出来る。自分が盗みをしているのではないし、自分が盗みをしているのは誰にもバレていない。誰にもバレていないから自分は盗みをしていない。

もちろん、盗みはしているわけで、子供だから法的には罰せられることはないし、生活が苦しいから盗みをしているわけだけど、なぜ自分の生活が苦しいのか本人にも分からないし、誰かに依存して生きるのが嫌なわけでもない。ただニートうさんが教えてくれたのは、そのマジックだけで、そのマジックは誰にでもバレるようなマジックでしかない。でもそのマジックを教えてくれるのは、父が自分がそれしか持っていないからだ。だけど父はずっと自分たちは特別で、何もしていないわけではなくて、ただその特別なつながりというマジックだけが自分たちに存在する全てだった。

というモノローグが私の中に生まれた理由は「万引き家族」を最近見たからだ、だけど、その映画を見た途端、私は涙を流していた。ぼろぼろだった。よく「ダムが決壊したように涙が零れた」という比喩表現がされるけど、本当に止まらない。というかダム、ということは今まで泣こうとしても泣けない自分がいたということに気付いたからダムが決壊するわけで、いわゆる感動屋さんなら「ダムが決壊したように涙が溢れる」なんてことはない。多分私は所謂感動屋さんではない。と思いつつ、涙は幾十秒間から1分ぐらいの間、流れていた。

1分間も流れるか?と問いかけたくなるけど、体感がそれくらいで、実時間も同等だと思う。涙がとにかくうるさくて、もしかしたらもっと時間が経っていたかもだけど、それ以上涙は流れるままだった。

映画はあらすじ自体は分かりにくい。一応、家族らしく一軒家で暮らしているのだけど、その家族は明らかに貧乏だった。どのくらい貧乏かというと、めちゃくちゃ貧乏で、映画が始まった途端スーパーで盗みをしているのだ。そうして盗みをするとき、おっさんが気取った態度をとるのだった。

当然みんな、おっさんが気取っていることも分かるし、周囲もこんな仕草をする人を知らないはずはない、と分かるだろう。つまり男は日常的に盗みをして暮らしているのが映像と演技で分かる。それに子供らしき男の子が、盗みを手伝うのだけど、本当に周囲が気付いていないかというと、そんなことなくて当然気付いている。

しかし少年は父しか見えていない。父のミッションを遂行するのが目的なので、その行為が窃盗であること自体は子供にとって重要な事ではなさそうだった。そうして盗みをする。おっさんは楽しそうだった。けど、そのはしゃぎ方をみて不安に思う観客の方が多いだろう。子供の息せき切って走る姿の方に感情移入してしまうのは仕方がないよな、とこの時点でも涙が流れていた。そうしてカルピスを飲む。

家族が貧困状態にあるのが分かるのは家の乱雑な状態によってだ。家の中を片付ける人間がいない。体が温めればいいし、汚らしさ自体があたかも家族の証明であるかのようにおっさんは語る。だれもおっさんの言うことは信じていないのは周囲の冷めた話し方でわかる。でもおっさんは家族の長として、ふるまうのを止めない。けど、おっさんは働いていないし、家族のために何一つしていない。他人から物品を盗んでも、なんら罪の意識を持たない儘生きている。

そうして、子供が誘拐されるのだけど、その女の子はまだ5歳だった。「万引き家族」は女の子さえ盗むのだった。さて女の子を何故盗んだのかというと、女の子つまり娘が欲しかったからだ。欲しくて、手に入らなくて、自分が持っていないものは全て、盗品だった。

そもそも家族は、結婚をして、国が認定しないと家族にはなれない。同棲という形式なら家族にはなれるかも知れないけど、国から補償を貰えない。おっさんの家族は未成熟な関係でしかなくて国にさえ認められていないので、あえて万引きという表現がされている。

でも、成熟した家族、つまり同棲をあえて選んだいわゆるプロの泥棒家族だったとしたらどうだろうか。あえて結婚をして、国から補償を受ける為だ。子供が生まれれば、子供のため働く。つまり働く意義なんぞが生じたりする。でも子供なんてどこにでも存在する。わざわざ家族という形式に引き籠もらなくても、個人でも生きていく場所があるのが日本のはずだ。なぜ日本ではお金の為に働く姿がこれ程ないがしろにされるのか。

それは彼らが人権や絆というたった一つの言葉を拠り所にした存在だからだ。

しかし普段から彼らの発するのは金銭の話である。また行動も全て金銭の為の行動であった。日々の生活を成り立たせるためだけに行動しているので、邪気が無いのだった。その無邪気さがあきらかに不気味な存在に私たちからは見える。とくにリリー・フランキー演じる男が恐ろしい。彼は長屋で父親を演じて、その後、ただのおじさんに戻る。

未成熟の男であり、一切の成熟や成長を拒否し続ける男でようは無責任でさえないのだ。彼には責任というものを理解することが出来ない。だから関係性を平気で壊すことが出来る。

そのリリー・フランキーと対照的な存在が松岡茉優である。彼女はいわゆるブスを演じているのだが、そのブスを素で演じている風が非常にうまい。「勝手にふるえてろ」では彼女の可愛さが表現されている。変幻自在のカメレオン女優というよりも、もっと怪物性をもった女優だ。どう考えても整った顔で美女なのに、映画の中で映る彼女はブスなのだ。これは凄い現象だ。

さらに安藤サクラが美しい。普通私たちは松岡茉優の方が美人であると判断する。それは彼女の容貌に対する情報が観客側に既にインプットされているからだ。しかし観客の殆どは多分安藤サクラを美しいと思ってみていたはずだ。一方松岡茉優をブスと思ってみていたはず。もしこれが私の主観なら私の「万引き家族」の見方が一般とは違うということになる。

ようは「万引き家族」は一見ドキュメンタリー風に作られた映画という虚構に私たちが既に騙されていることから起こる現象だ。この物語では子供の視点がユニークである。少年は父を守るため、万引きではなく泥棒になる。窃盗で捕まるのだ。わざと窃盗をするようになった少年に男は「おれはただのおじさんに戻る」と伝えるのだった。

是枝裕和は映画のテーマの一つに「ダメおやじ」を設定している。子供が大人にならなければならない理由の一つにダメな親の存在は必須条件なのだろうか。ただ子供の成長がテーマではなく、同時に父親の成長も描いている。最近ではそちらの比重の方が強い感じがする。それはリリー・フランキーや阿部寛や福山雅治という俳優との出会いから生まれたテーマなのかもしれない。

樹木希林さんが登場していて、その気持ち悪さが凄かった。何故気持ち悪いと感じるかというと、明らかに彼女は異物なのだ。その異物が泰然自若と存在している風を出している。樹木希林さんは本当にすごい女優だ。存在することの不気味さや異様さは観ているときはあまり感じないのに、その後、思い出すたびにだんだんとぞわぞわして恐ろしくなるのがほんと凄い。

この映画を見て、「万引き家族」の連中に対して、心惹かれる自分がいるのは何故か。それは家族が真に家族になるには、お互い子供から大人にならなければならないからだ。それは一言で書くと、対話が必要になる。対話とは、お互いがお互いの言葉に耳を澄ますことを指す。何故耳を澄ますのか。それは大人になれば成程、大きな声が価値があると思いがちになるからだ。

現代における未犯罪性について


つまり社会的な成長こそ、大人になることである、と勘違いをする。けど当然時間は流れるし、個人や社会的の歴史のみが価値を持っているわけではない。けれどもこの世には明らかにルールがある。それは犯罪を犯してはらない、というルールだ。この大前提のルールが現在、社会の中でないがしろにされているのではないだろうか。それは日本で新しい文化が生まれるたびに、イジメという現象が生まれることからでも想像できる。

ネットが育てば、SNS内でイジメ、新しい関係性を持つための場所が生まれるたびにイジメが発生する。海外でこれ程イジメってあるのだろうか、と不安になるほどイジメがある。よく日本人で海外に移住した人や旅行をした人から「海外ではイジメが殆どない。」とか「海外でもイジメがある。」という意見を聞くが、これってどちらが正しいという意見ではなく、イジメを視認できる人が日本の場合いないのが原因なのではないだろうか。

さらにイジメが起きた後、注意をする人が殆どいないのも問題を助長させる原因である。テレビで平気で子供が自分のイジメの言い訳に「弱肉強食」思想を言える幼稚さ。意見は自由に言ってもいいけど、本気でこんなことを言っていたら、どう考えてもヤバい子供でしかない、大人はヤバい子供には近づこうとしないから、あえて注意をしなくなる。大人が注意をしないから、子供は増長するし、子供の親も構わなくなる。

つまり、言っても無駄だから誰も注意をしないのだ。では本当に言っても無駄だろうか。当然無駄ではない。この大人たちも実はその子供の家族に対して手ひどいイジメをしているのだ。ある程度頭の回る大人になったオタクは平気でこういうタイプのいじめをする。大人のイジメってやつは、オタクのイジメと言い換えても良いだろう。あえて教育的指導をしないのだ。教師に指導されなかったと言い訳が出来る子供は、いつしか親のことも信用しなくなる。

つまり悪循環しかない。子供が成長するか、親が成長するか。両人が成長するのが良いだろう。本当は大人や社会が大人としての責任を持って、注意をしたり、キチンと説明できるのが良い社会を作るためには大事な事だけど、誰もが「どうしようもない」を言い訳に、何も言わなくなる。そういう社会の大人は沢山言い訳を用意していて、曰く「私の仕事ではない」曰く「自己責任」曰く「私のせいにすればいい」曰く「こまった人たちだ」曰く……いくらでも言いようがある。相手と関わる社会は当たり前なのに、この当たり前の関わり方自体を現代ではコミュニケーションと高尚な名前で呼んだりする。

現代ではオタクがちょうど中間管理職の立場からもうちょっと上に立場になっている。オタクは良いけど、そのなかでもプロ化したオタクはヤバいよ。この「万引き家族」のおっさんもプロ化したオタクで、最後まで成長することが出来なかった。そいでもおっさんの子供は新しい勉強をすることが出来るようになった。成長が出来るんだな。子供には未来があるね。あってほしい。この映画は祈りだ。

子供たちよ。あえて自由を履き違えて、生きよう。それから勉強をちゃんとしよう。食事もしよう。友達をつくろう。少なくてもいいから。少しくらい汚れてても、気にしなくてもいいよ。洗ったらまたきれいになるから。でも睡眠はちゃんととろう。

ということが、私が子供に言いたいことだった。

でも礼儀作法を教えてくれる大人を大事にしたほうが良いよ。それは礼儀を知るということは現代の日本では自由を知るということだから。狭苦しく窮屈に感じるかも知れないけど、今のところ、礼儀こそが、生きるうえでお金よりも重要かつ有効な手段なんだ。覚えておいてほしい。

じゃまた。

 

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