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どっちやねん。|松永天馬「少女か小説か」

2018年7月19日 - Kritique, Literature Kritique, Novel Kritique
どっちやねん。|松永天馬「少女か小説か」

現代の少女小説の亜種としての小説


現代における少女小説は何処に行ったのだろうか。斎藤美奈子が『L文学読本』という少女文学大全的な書物を出していた。さてLとはどういう意味だろうか。J文学の場合、ジャパンのJなので、日本の文学、という意味になる。Lと少女を繋げるとすればLadyだろうか。わざと誤読をすればLesbianとも読めるだろう。この語訳は、男性がハードボイルド小説を読んでいる時、その主人公や小説の世界に対して強い憧れがあるという自意識から、女性が少女小説を読むことを勝手に揶揄する感情が多分に含まれている。とすると、女性から見て、男という存在はとても間の抜けた生き物であることが推測できるだろう。

女性である斎藤美奈子が少女小説を論じるということは、男性の評論家が日本文学について語ることに似ている。その似ている感じ(近似値)こそが斎藤美奈子の批評性になっている。

と斎藤美奈子について、書いているようだけど、今回は松永天馬の「少女か小説か」についてであった。松永天馬はミュージシャンであり、「アーバンギャルド」のリーダーをしているそうだ。説明するまでもないけど「アーバンギャルド」は「アバンギャルド」(前衛)を「アーバン」(都会的)と「ギャル」(若い女性)に一度分けてから、もう一度繋げなおした造語である。小難しい言葉で言えば「分解」と「再構築」になる。「ジョジョの奇妙な冒険第四部 ダイヤモンドは砕けない」の主人公、東方仗助のスタンド「クレイジーダイヤモンド」と同じ能力だ。ドラァ!……グレートだぜ。

「アーバンギャルド」には「都会のアリス」というそのまんまのタイトルの曲もあり、その楽曲の殆どが少女をテーマにしている。そうして「アーバンギャルド」の少女が生きている世界は「死」「病」「恋」「性」と非常に限定された世界である。前衛という言葉を隠れ蓑にして、都会的な少女たちのネガティブな世界を描いているのが「アーバンギャルド」なのだ。

さて『少女か小説か』について、なのだが、タイトルの「小説」とは何を意味しているのだろうか。私たちは「少女か小説か」を読むとき、それが小説であることは知っている。何故なら言語によってなりたっているからだ。では何故、その「小説」が「少女」として誤解するようなタイトルになっているのか。

この小説の登場人物は所謂少女であり、鍵カッコがついた「少女」ではなくて、単なる若い女性たちが登場している。その中に一編、「セーラー服を脱がさないで」を読むと、先生とわたしが意味ありげな話をしている。変が戀という言葉と関係があるとか、能動的であること、幽霊、レンブラント。そしてディズニーランドとセーラー服。これらの単語は猥雑な雰囲気がする。その猥雑さは一体どこから生まれるのだろうか。ちなみにこの物語は最後に、今までの先生とわたしのやりとりは「プレイ」でしかないことが明かされる。その「プレイ」は所謂イメクラ的なニュアンスを私たちに与える。イメージクラブ所謂娼館を舞台にした小説にはジャン・ジュネの「バルコン」があるが、日本の中で娼館や娼婦をテーマにした小説家には川端康成や吉行淳之介がいた。

※川端康成と吉行淳之介はエロティシズムの作家と言われていて、二人の作家の特徴として非常に自立した考えを持っていたところだ。特に吉行淳之介は喘息を患い、肺炎にもかかっていた。最近亡くなった桂歌丸みたいな「病気のデパート」という存在だった。

かし「少女か小説か」における小説は、少女が小説化したものでしかない。その結果、その小説群は、少女か小説か、どちらかわからない異様なものになってしまっている。そのありようはエロポップ文学といえば良いだろうか。エロスの作家の中には、野坂昭如のような本物のオナニストもいれば、三島由紀夫のように解剖的エロスを持った作家もいる。三島由紀夫の小説が苦手な人は、彼の小説が腑に落ちるからだろう。それは三島由紀夫は自分に理解できないものには決して手を出そうとしなかったからだ。だから三島由紀夫に評価をされるということは、三島由紀夫の審美眼にかなう作品であるという証明になったのだ。そのくらい三島由紀夫の文学的審美眼は高かった。

さて、松永天馬の「少女か小説か」はデッドポップ小説といういささか奇妙な一面を持ちながら、一方でアンデッドポップ小説という体裁も取っていた。寺山修司的に古今東西のサブカルチャー文学的名言を安易に(?)剽窃している(例えば「セーラー服を脱がさないで」はおニャン子倶楽部の「セーラー服を脱がさないで」をそのまま剽窃しているし、「都会のアリス」は名匠ヴィム・ヴェンダース監督が1973年に発表した映画のタイトルから取られている)が、実はその名言自体が換骨奪胎的にほぼ一切機能していないことも「アーバンギャルド」の批評性であり、ついにはこの小説が「少女か小説か」と疑わざるを得ない内容になっている。普通の文学観を持っていれば、この小説は所謂「小説ではない」だろう。

では、小説で無ければ、この小説は一体なんだろうか。それは多分「只の少女」である。売り物でもない、ただそこらじゅうを歩いている学生だったり仕事をしていたり、プリクラをしていて食事をして、恋愛をしていて、お洒落をして、勉強しているただの少女。だから、実はただの少女であり、もし少女という記号を使わなくて、例えば少女の代わりに「イグアナ」や「みかん」や「太陽」でも構わないだろう。

彼らはたまたま少女として生まれてしまったため、少女として生きている。もしイグアナとして生きていればイグアナになっているだろうし、しょせん私たちもおっさんとして生まれたからおっさんだったのではないだろうか。ということは記号自体が意味を持たないということだろうか。

今回は「小説ではない小説」を説明する必要があり、私もいつものように記号性を多用したが、松永天馬にとって、この小説は「少女」でなければならなかったはずだ。だからこそ「少女か小説か」なのだ。私たちがこの小説から少女の幻影をとらえようともそれは無理な話だ。それは松永天馬しか描いていない少女の幻想だからだ。

松永天馬が描いている少女は、小説に化けたり音楽になったり写真の被写体になったりと、多様に変化をしつつ、私たちが思い込んでいる少女自体の無意識を揺さぶる。そうして私たちおっさんの中にかつて少女だった記憶をねつ造し始めるのだ。まるで私たちと少女たちが、一切なんら存在として違わないものであるということを。でもそれさえもただの観念でしかない。

この小説を読むことで、無かったはずの経験を作り出せる。これこそ語りの面白さである。ただ松永天馬はタダの語り/騙りじゃないよ。本物の語り/騙りだ。松永天馬は本気で自分が少女であることを止めないだろう……多分。どっちやねん。

じゃまた。

アーバンギャルド「セーラー服を脱がさないで」


最後にアーバンギャルド「セーラー服を脱がさないで」と「都会のアリス」を紹介して終わる。

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