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女子プロの世界|描かなければよかったのに日記。

2018年8月4日 - Kritique, 描かなければよかったのに日記。
女子プロの世界|描かなければよかったのに日記。

最近、ネット上を騒がしているのは、やはり杉田水脈だろう。今まで杉田水脈をほとんど知らなかった私まで彼女がLGBTの支援に対する行政批判の中にLGBTが生産性がないことを中傷したため、杉田水脈が炎上してしまった騒動であることで杉田水脈を知ることになった。

杉田水脈は一応LGBTが生産性がないという論理を展開しているけど、彼女の言う生産性は基本的にLGBTの思想を否定していない。彼女は生産性を子供を産むこと、つまり出産に焦点を当てているが、LGBTはあくまで集団であり思想なので、LGBTの中の特定の誰かが出産できないと指摘しているのが今回の火種のもとになっている。

LGBTとは同性愛者を指す言葉ではないし、もちろん同性愛を奨励する思想ではない。LGBTの中で出産する人がいても可笑しくないだろうし、むしろLGBTという形式で出産をしていく人が増えてもいっても可笑しくないだろう。

実はこのやり方自体、福田和也が「ろくでなし稼業」や「喧嘩の火種」で使用したべらんめぇ論理である。手当たり次第に切りつけ、返す刃で自分を斬りつける妖刀の持ち主である福田和也だからこそ、可能だったやり方だった。つまり福田和也の批評文には諸刃の剣としての魅力がある。

そうして杉田水脈の発言には魅力を感じない私がいる。そのことを少し考えていきたい。

私は杉田水脈の文章や文脈からは福田和也のような妖しさを感じられなかった。それは杉田水脈が自分の発言を削除していることからそのように感じた。もしそこに思想として信念のようなものがあれば、自分の持論をその後も展開してくはずだ。

それでは、杉田水脈は何故、自分の主張・論理を展開する時LGBTを生産性がない、としたのだろうか。ここに杉田水脈の差別意識を捉えることも出来るだろうけど、それよりもこの文脈から彼女が「生産性」と「労働」を結び付けていることの方が大事かもしれない。

この杉田水脈の発言はLGBTという自由への闘争を開始した思想に対して、ある種の保守的思想の提案と捉えられるだろう。ただ杉田水脈の考え方は、残念ながら今まで虐げられてきたLGBTという思想ではなく、現在の福祉や優生思想自体をわざと誤解させる可能性が強い意見になっている。

そこで杉田水脈が自らの主張をするために何故LGBTを俎上に乗せたか、を考える必要がある。そこには杉田水脈個人のLGBTに対する私怨があると思えるからだ。LGBTは一見生産性が無いように見える、がそのように見えることが重要にのではないか。LGBTの人は思想として、自ら同性愛であることを公表している。つまり基本的に「出産」や「一般的な社会性」とは無縁な生活を送っている(ように見える)アウトサイダーなのだ。

けれども、現代社会の中にはLGBTの思想を持ったまま社会生活を送っている人もいるし、出産を経験しているLGBTの人もいる。より視点を拡大させるとLGBTでなくても出産を経験していない人もいるし、結婚を経験していない人もいる。さらに視点を変えると結婚していなくても子供を産んでいる人はいる。

杉田水脈の意見に魅力がないのは、彼女が俎上に乗せたLGBTが、かつて性的障害者と呼ばれていた人たちであるという歴史を無視しているからだ。そのような虐げられた歴史があって、彼らは自らをLGBTである、という思想を持つようになった。このことから杉田水脈の意見が否定しているのは、LGBTの思想が拡大することにあるのが分かるが、その意見は、何故かLGBTの思想弾圧ではなく生産性の欠如という行政批判にたどり着いている。

この論理的矛盾こそが杉田水脈の意見の魅力の無さである。

何故杉田水脈は自らの論理を矛盾した(させた)のだろうか。

杉田水脈の発言は一見正しそうだ。それは子供を産む、ということが生物としての最上級の使命であると皆が無意識に捉えているからだ。つまり彼女の生産性とは実は労働性によっている。そうして労働力の無い人間は、価値のない存在であり、国民の税金を使う必要が無い、という論理になっている。

しかしこの考え方は、労働力が数によって、成り立っていることが大前提になっている。でも生産性や労働力とはもともと数値化できない。数値化出来ていたのは、かつての家庭内手工業の時の話だ。つまり彼女の生産性と労働力の根本的な考え方は、300年前の話から成り立っている思考になる。

何故杉田水脈はかなり昔の古い思想を持ち出してきたのだろうか。

杉田水脈は生産性のあるものとないものを区別している、と本人はしているが、これはサッカレーの「素晴らしき新世界」と同じ世界であり、じゃ杉田水脈の目指す世界をイメージすると、全ての人が普通の感性を持ち、普通の仕事をして、男女しか性別が無い世界がイメージできる。私にイメージ出来るということは誰でも出来るだろう。

杉田水脈の考えがまともだとすれば、300年前に時間が遡ることになる。つまりこれは彼女の論理ではなく感性の問題として捉えられる。

一見正しいように見える杉田水脈も、実は今まで女性たちが戦ってきた歴史があるから、今のように発言出来ていることを忘れているのではないだろうか。もっと書くと彼女の知っている歴史だけではなく、今まで女性が虐げられた歴史があり、戦いに破れてきた歴史があった。つまり女性の権利獲得の戦いの歴史は現代だけを見ると一見勝ち戦に見えるけど、もちろん個人においては敗北もあり、彼女の持論も、その戦いの中で産まれた考え方の一つに過ぎない。

また彼女の思想は一見彼女のオリジナルに見えるけど、実は彼女は知っている。現代、女性がこれだけ社会進出しているからこそ「世界の半分は女性で出来ている」という意見が通用していることを。彼女は歴史を書き換えようとしている。まるで初めから、つまり300年前から女性がこれだけの発言力を持っていて歴史を動かしてきたかのように。多数決という思想自体が、女性にとって都合がいいのと同じように、LGBTは少数派であり、そのため弱いということになる。つまり数が多いこと自体が強いという論理が彼女の中にあるからだ。

この恐ろしさを皆さん想像してほしい。私たちは知っているはずだ。女性が虐げられてきた歴史を。それは昔からの書物を読めば紐解ける。あえて曲解する必要はない。女性たちには発言力はなかった。決断力や決定力は殆ど男性が持っていた。現代、これだけ女性が権利を手にすることが出来たのも、ウーマンリブがフェミニズムまで発展して、その思想自体が汎用性があるものである、というところまで考え続けてきた人たちがいるからだ。

私から見ると、杉田水脈は、今でも男性の方が権力があることを知っていて、そうして差別されていることを知っている女性が、借り物の思想で現在、虐げられているLGBTの思想を弾圧しているように見える。

彼女は自らの考えを差別ではなくて、区別と言うのか。彼女はただ女性の数が多く、生産性があるから価値があると声高に叫んでいる。とすると彼女は女性の中でもレスビアンに対して、自分の価値を叫んでいるのだ。自分の生産性を。女性の生産性を。

でも、当たり前だけど女性自体、生産性だけが目的で産まれていない。だって生産性だけが目的だったら、この世に優れた遺伝子だけを残すことが目的になってしまう。とするとファシズムだ。だって反自由主義者だもん。本人は「若い頃は自由でも構わない」や「自分は同性愛者とも友達になれる」と言っているけど、それはあくまで個人の意見に過ぎない。彼女の思想とは相いれない。

彼女は自分の意見を言っただけみたいになっているけど、あくまで「政治家」という社会的属性に立って発言をしている。なので彼女の思想にはバイアスがかかっていて、信仰に近いものが感じられる。「政治家としての信念」や「女性としてのありかた」に偏りがありすぎる。本人は自由に発言をして、論理を組み立てているように見えるが、実は彼女自体、自由に発言は出来ていないのではないか。

私は杉田水脈がこれだけの発言をしても「同性愛者とも友達になれる」と発言していることから、本人は「女子プロ」のつもりなのかな、と思った。

だから杉田水脈の発言は一見行政指導みたいだけど、ファシズムが露呈してしまっている。実は現代日本のファシズムは「女性は結婚をして子供を育てなければ一人前とは言えない」という目に見えないしがらみから来ている。ファシズムでは言い過ぎなら、結局男性主義が女性の仮面を被ったに過ぎない、という書き方でも良い。女性に対して負担をかけすぎているのが現代の日本の課題だ。女性のみならず職業選択の自由があるっていうけど、自由であること自体、個人に責任を持たせようとし過ぎている。

杉田水脈は「女子プロ」の中で本人の役割として、今回の発言をしているみたいだけど、男がほっとかれている感じが男には居心地がわるいだろう。何故これほど男を無視した持論を展開したのか、分からない。彼女の目には男は映っていないのだろうか。「女子プロ」が存在するってことは「プロ」が存在するってことだ。女の世界は怖いかも知れないけど、男の世界も怖いよ。そこまで考えて発言しているのだろうか。

女性のみをターゲットにした発言だからこれだけ「炎上」したのだろうか。それとも相手が明らかに弱者だから?この発言の怖さは基本的に相手が言い返せない相手である、ということだ。杉田水脈には確か子供がいたはず。自分の子供がターゲットになる可能性は考えなかったらしい。まだ起きていないけど可能性はあるかも。杉田水脈の血脈には今のところ「LGBT」の血は混じっていない。「オタク」の血は混じっているけど。

最後に杉田水脈の論理によると、生産性を上げる為、少なくとも下げないためには、女性は、結婚をしてもしなくても、少なくとも二人以上子供を産まなくてはならない計算になる。杉田水脈自身は現在一人しか子供を産んでいない。とすると彼女自体にも生産性が足りないことになる。このような理屈は私は好まない、それは相手の弱みに付け込む論理だからだ。

このように、自らが生き残るために論理を武器にして弱者を作り出していたぶるやり方は誰にでも可能だろう。しかしその論理は私には気持ち悪い。

人は誰でも常に正しく生きられるわけではないからだ。

私は現代社会自体が今の状況を自然の道理として捉えたほうが良いと思う。子供の数が減ってきているということは、人類自身が生き残ろうという意思が少なくなってきたともいえるのではないか。

マイノリティーが意見を大手を振って生きていける時代は、労働力自体が落ちるのも仕方がない。逆に思想的な運動が盛んになった時代といえるだろう。また新しい文化が生まれ多様な働き方が産まれる可能性がある。長い歴史からすると、私たちが生きている時代は労働力(バイト)が評価される時代ではなく、自由な思想や生き方が模索された時代として、評価される可能性がある。その中でもLGBTは生き残る可能性があるのは、優生思想の欠点を指摘しているからだ。性において不自由であることと、不幸せであることは≒ではない、という現象における事実を。

いつか、性と生産性が分離される世界も成り立つかもしれない。その世界は、もしかしたら誰もが自由に性別を選べる社会かも知れない。今のところ、それは難しいとされているけど、何時かは科学の力によって可能になるかもしれませんね。

じゃまた。

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