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漫画と文学の幸福な結婚|望月ミネタロウ「ちいさこべえ」

2018年8月14日 - Comic Kritique, Kritique
漫画と文学の幸福な結婚|望月ミネタロウ「ちいさこべえ」

漫画が文学の世界に入り込んできたのは、大島弓子という作家が登場してきたときからだろうか。日本でもバンド・デシネという概念が海外から輸入されてくる前から、漫画でも文学であることは一部の漫画読みや文学者や小説家にとって自明の理だった。けど、あくまで漫画は漫画であり、文学とはかけなはれた存在だと思われてきた。大友克洋の「AKIRA」や「気分はもう戦争」や「童夢」においても日本がそれまで培ってきた漫画表現とは別の世界を作り出したけれども、あくまで文学としてではなく漫画、コミック、バンド・デシネ(フランスでは9番目の芸術と呼ばれている)であり、コミック・アートという領域の作品だった。

今回は望月ミネタロウの「ちいさこべえ」がテーマなんだけど、「ちいさこべ」は山本周五郎の小説である。山本周五郎というと時代劇作家というイメージがあるが、それに限定されない小説家であり、たまたま注文の中で時代劇が多かったし、山本周五郎がテーマにしているのが時代劇だっただけに過ぎない。つまり山本周五郎は小説家なのだ。

その為、他の分野に乗せても彼の作品は成り立つ。「さぶ」は三池崇史監督、妻夫木聡と藤原竜也のダブルキャストでテレビドラマ化されている。面白い、多分。見ていないので。そうして「ちいさこべえ」である。漫画化したのは「ドラゴンヘッド」の望月ミネタロウ。あの漫画が黙示録的に現代における「恐怖を持たないこと」自体の恐怖心がある程度、現実になってしまっている。それは「忘れる」ことの恐怖だ。恐怖自体を忘れると、自分が持っていたはずの人生の目的まで失ってしまう。

「ちいさこべえ」では大火事によって焼きだされた子供たちを主人公が引き取るところから物語が始まる。この子供たちは望月ミネタロウが自著「ドラゴンヘッド」によって生み出された「死ぬかも知れない恐怖」を忘れて生きようとする子供たちだ。その子供たちをどの様に回復させ生きることを思い出させるか、それが望月ミネタロウが「ちいさこべえ」で試みた実験である。この実験は前作「東京怪童」でも行われていて、漫画という現実に、一種の幻の島を作り出すことで文学という形でさらに望月ミネタロウ自身の漫画を捉えなおそうとしていた。

今回の「ちいさこべえ」では現実的な形で、家を建て直そうとする一人の主人公の姿がある。この漫画では子供が犯罪を犯すシーンがあるのだが、窃盗をされた店主は子供でも許さない。もし子供の万引きを許したら……と色々と理由をつけるが、とにかく許さない。この許されない犯罪に対して、子供を引き取った主人公は代わりに謝り、そうして、子供のせっかんをする。子供は、現代でそんなことをしたら家庭内暴力で訴えられるぞ、と叫ぶ。さらに行政を引き合いにだして、主人公に反抗する。

ここで描かれているのは、犯罪をしたら罰せられる、ということである。確かに未成年は法の下では罰することが出来ない。しかしもし子供に未来があることを本気で信じるのならば、大人は子供に恨まれてでも、罰しなければならない。そうしてお尻を叩く。その底には主人公の思考がある、その思考は店主が主人公の友人であり、お互い生活が苦しいということだ。

人間には生活があり、その領分を乗り越えれば、叩かれる、という現実を子供は知るのだ。そうして自分たちには意外と居場所が無いのではないか、という現実を思い出す。これが子供に植え付けられた根源的な恐怖であり、「ドラゴンヘッド」の底に流れるテーマでもある。「ドラゴンヘッド」は突然、自然現象として世界が崩壊してしまうハルマゲドン的ストーリーを元にした根源的な恐怖を描いた漫画だ。

「ちいさこべえ」は人が生きる上で一番大事な根源的な肯定感と、肯定感の喪失からの回復を描いている。そこに立ちはだかるのは恐怖であり、果たして「ちいさこべえ」は肯定感をもう一度救いなおそうとして描かれたのか、それとも、ただ望月ミネタロウの漫画としてこの作品は成り立っているのか。ここには長い間、川の向こう側にあった文学と漫画の狭間に存在した驚異の谷に橋が渡されている。

「ドラゴンヘッド」の持っている自然現象としての世界崩壊への不安と「ちいさこべえ」における火災における家の焼失は同じレベルのものとして望月ミネタロウは捉えている。この捉え方は結局、世界が崩壊しても人生は続く、という現実があるからだ。「ドラゴンヘッド」は薬を飲むことで恐怖心を和らげるが、その結果、思考することを無くし、生きることに関する根源的な恐怖がなくなる。

自然現象としての世界崩壊によって生じた根源的な恐怖が、恐怖から目を逸らすことで、一時的に存在しなくなってしまうのだ。私たちは自分が思っているよりも恐怖の中で生きているのは、自分の行動や言動にどこか「間違ったことがあった。」可能性を探しているからだ。

「ちいさこべえ」において、子供が犯罪をして罰せられるのは、その行為が犯罪だからであり、法を犯しているからだが、もっと書くと人が生きている世界にはルールがある、という大前提があるからだ。

「人を殺してはいけない。」や「盗みをしてはいけない。」はもちろん「人の悪口を言ってはいけない。」「嘘をついてはいけない。」もルールになっている。ただ後者は倫理の世界でしか成り立たない。実際悪口は言ってもなかなか法的に罰せられない。名誉棄損という形でならあり得るが。現代日本では倫理的なルールがあまり守られていないのでイジメが起こりやすいし、それがイジメだということを周囲の人間が認識しにくくなっている。

「ちいさこべえ」では子供を罰する前にすでに子供たちの家はここだ、と伝えていた。時代が移り変わろうが人情自体は変わらないことを主人公は伝えている。「情けは人の為ならず。」ということわざがある。これは情けをかけるのはその人の為にはならない、という意味ではなくて、情けをかけることは人(他人)の為ではなくて自分の為だ、ということわざであり、「風が吹けば桶屋が儲かる。」と同じような意味合いの人間関係におけるバタフライエフェクトを指した言葉である。

さてこのようなバタフライエフェクトは人間の心理においても起こりえるのか、というのが心理学の基本であり、漫画表現の基本である。何故なら漫画は基本的に二元論であり、目に見えるものと見えないものがはっきりしている表現であり世界だからだ。平面表現(書割表現)だからこそ、人の想像力が発達して、その裏の世界が存在することにリアリティを感じられる。つまり「ちいさこべえ」は表現において、二元論だが妄想的ステレオタイプではなく、ダゲレオタイプを用いた漫画表現でありそこがこの漫画のユニークさなのだ。ダゲレオタイプとは大した意味はない。写真的という意味だ。

物事を解決する時「人情」や「義理」という言葉を主人公は使うが、その言葉がどこかぞんざいな気がする。実際義理も人情もあったものではないし、その言葉では助けることが出来ない。しかしそれを出来るかもしれないのが、漫画であり文学だった。と非常に漫画らしい終わり方をする文学としての「ちいさこべえ」だった。

かなり古臭い言い方になるけど、これは漫画と文学の幸福な結婚だと思う。というか漫画表現が発達してきて、大島弓子が誕生した時、いや誕生する以前から漫画は文学を凌駕している部分があって、言わずもがなだけど、その部分とはキャラクター(見た目=個性)というものだった。その漫画の方が歩み寄ってきてくれたのか。なんにせよ、幸福な事だ。

じゃまた。

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