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僕の人生のあとがき|描かなければよかったのに日記。

2018年8月21日 - Kritique, 描かなければよかったのに日記。
僕の人生のあとがき|描かなければよかったのに日記。

社会的評価について


私が気になっているのは過去は必ず現実まで続いていて、現実は必ず未来へと繋がっている、ということだ。つまり未来を変える為には現実を変えなければならない。さて現実を変える方法とはあるのだろうか。残念ながら、それは無い。

私が現実を変える方法について考えるようになったのは、太田光の裏口入学がスクープされたからだ。そうしてそれは茂木健一郎の話に繋がっている。茂木健一郎が日本の地上波の笑いがオワコンであることをテーマにしたツイートをしていた。一見、日本の笑いを分析しているようで、実際は日本の地上波のテレビに対して鬱憤が貯まっていることが原因らしい。彼の好みは海外の政治家とコメディアンたちのやり取りらしいから。

つまり彼の鬱憤は、海外のコメディアンが平気で大統領批判をしていることが原因らしい。そうして彼からすると日本の笑いはレベルが低いということになる。当たり前だけど日本とアメリカは違う国だ(実際は日本はアメリカの属国であり、支配されているからアメリカの一部と言っても過言ではない)。実際、海外のコメディアンが現アメリカ大統領のトランプを批判したから、日本でも同じように安倍政権を批判すると、どうなるか。

今回は爆笑問題の太田が裏口入学をしたのではないか、とスッパ抜かれた。私たちテレビの視聴者からすると太田が裏口入学をするか、どうかはどうでもよくて、もっと書くと安倍首相個人の問題もどうでもいい。それよりも問題なのは現在の政治に未来を持てないことだ。それと彼ら個人の持つパーソナリティ等を現政権が一緒くたにしているのが問題のような気がする。実際、太田の父親は亡くなっていて、事実確認できないことを、まるであたかも真実かのように報道したのが今回の件だ。

そもそも太田がそのように言われたのは、杉田水脈の発言にたいして太田が安倍首相に当てこすりを行ったからだ。かなり高度なポリティカル・ジョークである。この発言は茂木の求める海外のコメディアンの持つ合理的であり論理的な笑いの取り方だ。そのため太田も標的になった。気持ち悪く感じるのは、太田の発言は誰が聞いてもポリティカル・ジョークであり、大手の出版社が、太田を批判するようなことじゃない。あの発言に安倍首相がコメントをすれば笑いに昇華されるのに、何故か、全く関係ない(と思われる)出版社が首を出してきた。

この状況を作った大元は誰なのか。私は茂木健一郎だと思う。かなり突飛な発言だが、太田が茂木に現実を見せてあげたのだろうと思う。なんと優しい太田さんだろうか。もし日本で海外コメディアン的なある種合理的で論理的なやり方で笑いを取ろうとすると、日本ではこのような事が起きてしまうのだ。このことに安倍首相は発言しているのだろうか。していないだろう。

つまり現代の日本のテレビショウとしては成り立たなくなる。

この状況を知らないらしい茂木は一言で言うと単なる野次馬でしかない。地上波の笑いが人間関係の上下にばかり言っている、と指摘しているらしいが、逆にいうと、その日本の現実的現状をそのような形式でカリカチュアライズしていると受け取れるだろう。日本人の観客は優秀であるのは、テレビが既にテレビショウでしかなく、逆に想像力が必要であり、本当に知性を持っている人間はだれか、笑いとはどういうものか、を理解しているはずだ(そうでなければ、日本のテレビショウ自体が成り立たない)。

現在地上波では芸人はそのように現実をカリカチュアライズさせて笑いや芸を行う芸人が多く、退屈な話の場合は笑い飛ばしてしまうことがある(それらの多くが人間関係の上下についての話題なのだ。こういう話題をその場の芸人が「面白い」という場合があるが、本当に「面白い」と言っているのではなくて、あえて「面白い」と言っている場合もある)。その芸人同士のやり取りが笑いの多様性に結びついているのだ。人を傷つけない笑いは基本的に存在しない。個人の多様性を認められて、相手の知性を理解できるからこそ笑いが生まれるのである。

地上波で大っぴらに政治批判をする芸人が殆どいないのは、そういった芸人はアンダーグラウンドで活動しているからであり、何故か茂木健一郎はアンダーグラウンドということに対する想像力が欠如している。彼の想像力に関する理解は表に出ているもの(茂木は、既にある一定の社会的評価を受けている芸術や芸能しか理解出来ないのだ)。

僕の人生のあとがき


茂木は芸人を誤解しているのだけど、芸人とはもともと社会的には地位の低い人を指す言葉だ。これは芸人と言うものを差別しているのではなく、もともと芸人とは自分を見世物にして沢山の金を貰う職業を指すのであり、実際は文化人になってしまった役者なども芸人や作家も同等で社会的には地位の低い存在と言われてきた。それが日本の文化である。だから私たちの知る限り茂木健一郎も芸人であり作家なので、現在は文化的に地位が高いと言われているけど、もともとは社会的地位を高くしていった菊池寛のような作家がいたのだ。

茂木は海外のコメディアンが自由に政治批判をしていて、その現象をスリリングだと言っているらしいが、残念ながら、日本で安倍首相をネタにするとき、ほとんど「言ってはいけない」という状況になっている。それは現代の安倍政権が、実は思想的には内実が無いからだ。茂木健一郎もそれは知っていると思うが、すでに総理大臣という社会的評価を受けている為、茂木には理解出来ない可能性がある。

このことから茂木健一郎がお笑い芸人を社会的には立場の低い存在に見ていることが分かるのだが、何度も書くが芸人とはもともと地位が低いのだ。その地位の低い芸人が政治批判をしないから、怒る茂木健一郎はなんて可愛い奴なんだ、と茂木のファンは思ったりする。一方、私に限らず、何故茂木はアメリカのコメディアンを批判しないのか、と想像もする。そうして「オワコン」とネット上の流行語を呟く茂木。果たして茂木は「オワコン」を理解して使っているのだろうか。もしかしたら茂木健一郎はゆるキャラなのではないだろうか。

ゆるキャラだと思われる茂木は、そもそも研究者である。研究者は技術者を否定しがちな所がある。それは「技術は半年もあれば手に入る」という能書き(Twitter)を研究者は持っているからだ。茂木の能書き(つまりTwitter)は一見社会批判的なのだけど、これは本人が知性を持ち、社会的地位が日本においては高いことが大前提の社会批判である。つまり茂木の知性の受け皿に入り込まなくては、茂木の発想の発端は理解されにくいだろう。

でも茂木さんよ、芸人が自由に発言できる世界をつくることが大事なら、まずは芸人と言う存在がもともと社会的には地位が低い存在だった歴史を学んだらいかがだろうか。歴史は嘘を吐かない。サーカス小屋があり見世物小屋があった。その中で食うに困る人たちがやむをえなく芸人をしていた歴史があるのだ。職業選択の自由を、あらかじめ持てない世界が芸人の世界には存在した。

自由に生きることが出来るのは茂木が能力が高いからだろうか。いちいち大学に行かなくても勉強が出来るのは当たり前だけど、それはまず大学に行って卒業できる能力のある人間の言うことだ。しかし大学に行く人全てがそれだけの能力がないから、大学というシステムが存在するのだ。つまり独学には限界があり、その限界値が意外に低い人がいるのが現状なのではないか。ここを否定すると個人の人格を否定してしまうことになる。

学ぶのには遅すぎることはない、という言葉もある。それは人生の真実だけど、それにはまずお金がないと難しい。お金が無ければ働かなければならないが、年を取っていればそんな能力も育たない可能性がある。そこで提案だが勉強を永遠に出来るだけの、お金が無尽蔵に生まれるシステムを作ってほしい。茂木の勉強中心主義もいいけど、生活を成り立たせる努力もついでにしてほしい。

社会的弱者を救い上げられない学問主義は崩壊するよ。私は学問は表立った評価だと思う。だからアンダーグラウンドの評価を茂木は理解出来ない。アンダーグラウンドだって勉強だよ。それは現実を理解するということなんだ。教育とはそもそもこの世に上下があることを教えるものだったはず。「天は人の上に人を作らず。」学門のすゝめにもそう書いてある。この言葉は多分、儒教であり、つまり言語を理解しなければ理解出来ないシステムになっている。林修がオワコンなのは誰でも理解できるだろうけど、林修も茂木も一つの大きな舞台(ショウ)で笑いを取って、金銭を贖っているのは現実だろう。

自由思考があるから人間は勉強できる。勉強をすれば自由思考が成り立つ。理解出来ないものに鍵カッコをつけて発言するのはテキストとしてはあまり役に立たないと思うのだけどどうだろうか。鍵カッコを外した世界は意外と自由だよ。それは現実であり荒野だから。

じゃまた。

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