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思考のレッスン|別役実「けものづくし」

2018年8月27日 - Essay Kritique, Kritique, Literature Kritique
思考のレッスン|別役実「けものづくし」

テレビなどメディアで情報らしき断片を元に描かなくてもよい雑感を書いていると、暗鬱とした気持ちになり「やはり描かなければ良かった。」という気分に陥る。澱のようなものが足の裏の方にだんだんとたまってくる感じだ。結局自分で澱をためるため食料を買い込み、食事を作り、それを食べるという生活を送る。

今回読んだ「けものづくし」は、別役実の「づくし」シリーズで古本屋で気になっていた本であり、何故か「づくし」というタイトルが気になったから手に取った。だから手に取ったのは必然と言えるのだけど、さらに表紙がアルチンボンドであることも購入に対するハードルを下げたのは事実だった。当時の私は現在の私であり、ドイツ文学者、種村季弘の書籍や翻訳されたグスタフルネ・ホッケの評論「迷宮としての世界」を読んで頭がくらくらするような眩暈感を感じていた。めまいというよりも、ホッケが世界を迷宮と捉えていることに眩暈を感じていた。澁澤龍彦が訳したマルキ・ド・サドはもっと妄想として世界を捉えていたようだ。種村季弘の吸血鬼幻想の話でもくらくらしていた。ここで種村季弘さんの著作と澁澤龍彦さんの著作にに触れることで、自分がいかにこの二人のエッセイから影響を受けたかを披露するのも可能だけど、それよりも「けものづくし」の面白さに触れたい。というか紹介したい。

「けものづくし」は1980年から1982年まで「アニマ」誌に連載された作品だそうだ。私の手元にあるのは平凡社ライブラリーが1993年に出版した初版であるらしい。「真説・動物学体系」と書かれており、この真説という言葉使いが、実は嘘っぽく、戯曲の中には、野田秀樹の「贋作・罪と罰」や「贋作・櫻の森の満開の下」がある。とその位「説」というのは嘘臭い。「贋作・罪と罰」は私が見たのは、主役のラスコーリニコフが実は男装の麗人であるという設定だった。

この本は実際に存在する動物から存在しない動物までを取り上げて学門的に解釈を披露したエッセイであり、澁澤龍彦著「私のプリニウス」のような幻想的な動物も登場する。ただここに登場する動物は皆、私たちの知っている動物とはほぼ全く違うけものたちであり、実在の動物から想像したとは思えない世界が広がっている。

それは初めから間違っているからだ。その間違いとは「けものづくし」が思考のレッスンとして成り立つ理由にもなっている。普通、学問とは事実から論理が成り立たせて、事実自体を一度言語化することで、また新しい一面が捉えられるというやり方をとっている。しかし「けものづくし」はまずその動物に関する文学的な解釈があり、その後にその解釈自体を思考の脱臼のようなユニークなストーリー展開を見せて見事に着地をするのである。別役実さんはあとがきで「けものづくし」を役に立たないと書いているが、それは役に立たないというよりも、頭が疲れている時に読むとデトックスされるような面白さがあり、彼の文章の妙に連れさられて、あっというまにとんでもない結論までたどり着いてしまうのだ。

これは脳内の思考をアクロバットさせているわけで、事実とは程遠い、正しく役には立たない。では何故この役に立たないエッセイを別役実さんは現したのか。それは学問とは観察から行われているからであり、間違った観察をすれば事実とは程遠い結論にたどり着くということをこのエッセイは示しているからだ。初めが唐突に間違いがあり、その間違いにのっとって、ゴドーという存在するかしないか分からない存在を待ち続ける二人の男、のようにエッセイにおいても場違いな知識や学説を披露するのは、けものたちを間違った視点でとらえ学術的に真説を立ち上げているからだ。

さてこの「けものづくし」は本当に間違っているのだろうか。この益体の無さこそ、このエッセイのテーマなのだけど、これは文学における意味の無さ、というテーマに繋がっていく。現在文学は流行らなくて、それは売れないということ以外に、文学を楽しめる土壌がないからではないか、と考えられる。

文学を楽しめる土壌とは一体何だろうか。それは孤独を知ることだと思うが、実際は孤独になることを世の中の人は恐れているのではないか。孤独とは一人ぽっちの状態を楽しむことにあるらしい。テレビでは少なくとも孤独について、そのように説明している。テレビと哲学は意外と相性がわるい。孤独とは一人の時間を楽しむことであり、テレビを楽しめるのは実は孤独じゃなくて、孤立しているからだろう。

孤独な状態で思考することは思考自体を楽しめる純粋思考といい、言語を楽しむことである。言葉の繋がりの心の内が何処かに飛翔していくのが楽しいわけで、テレビを見て勉強を出来るが、テレビに出ている人の殆どは何処か孤立している風で、何か役割を演じているだけのような気がする。

「けものづくし」の中には思考自体が遊戯として成り立つ世界が広がっている。この文章を自己韜晦と呼ぶには面白すぎるし、実際観察された事象は文学であり、言葉が意味を喪失した結果、作者の思考した芝生の草むらが残っていて、その模様がとても面白い模様や意匠として捉えられるのが「けものづくし」の本領と韜晦では無いだろうか。

何かに尽くされるというのは、例えば世界は生き物で出来ているや、世界が100人で出来ていると近い。嘘っぽく絶対的な世界観がある文学ではなく、遊戯としての文学であり韜晦としての文学だからだ。

テレビショウを楽しむのもいいかもしれないけれども、韜晦された自己を遊ぶ天才である別役実さんの「けものづくし」も是非読んで下さい。小林信彦や宮沢章夫のような芸のある文章を楽しめます。ナンセンスはセンスがないと形にならない。クラツカーが鳴ったらパンと音が鳴ってなんとも言えない。鬱陶しいのは雨のせい。あれ、他の本も読んでみます。

じゃまた。

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