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密室の哲学者|ポーシャ・アイバーセン「ぼくは考える木」

2018年12月20日 - ノンフィクション, 感想, 文学
密室の哲学者|ポーシャ・アイバーセン「ぼくは考える木」

「ぼくは考える木」はポーシャ・アイバーセンによるノンフィクション小説である、であろうと思う。「ぼくは考える木」は一人の自閉症患者の主人公にしている、そしてその自閉症患者は自分の内面を確かに表現できる優れた詩人なのだ。そして、この物語は自閉症患者でさえ高い知性を擁している可能性があり、そこには希望しか見えないという、一見ファンタジーでありながら、あくまで事実を元にしたノン・フィクションになっている。

これこそ小説の力であり、もしこの世に事実を元に写実的描写を行ったノンフィクション小説があり、それは確かにすごい小説だろうけれども(例えば島田荘司著「秋吉英明事件」みたいな小説、これは日本版「冷血」といえるぐらいの面白い小説)、それよりも強い障害を抱えながらも少しずつでもその才能が世に認められていく小説のほうがより魅力的に思えるのは私だけでは無いはずだ。未来に希望を持てない現代だからこそ、暗黒小説系のノンフィクションが多く読まれている。もともと文学とは人間の暗い部分や悩み深い世界を描いてきたけど、それを暗黒を呼ぶのは結局その事象を文化の側面で捉えているからだ。文学とは世界をどのように捉えるか、に関する実験場でもあった。

とするならば、自閉症患者の少年詩人という存在が既に文学として出色であることも自明の理である。そして彼が世の中に受け入れられていく未来が希望でしかないことも事実であり、だからこそ困難な道として連なっている。

私たちは読者であるため、自閉症患者の書いたその詩が文学か否か評価することが出来るし、一方で彼が障害を抱えながらも詩作する姿を応援することが出来る。いわゆる障害者ポルノを楽しむことも出来る。私たちはこのようなニュアンスの作品をたくさん見てきた。例えばダニエル・デイ・ルイス主演の映画「マイ・レフト・フット」を思い浮かべることも出来るはずだし、フィクションの世界ならば「バットマン」のペンギンにその感性を投影することも可能だ。

ただ彼の詩を読む限り、そのクオリティに関して一定の評価をしなければならないのも事実だ。それは障害者を好むと好まざると関わらず、文学において評価をしなければならないものだ。

私たちは障害者に対して本当に本物のコミュニケーションをとることは出来ない、と信じている。それってきっと私が勘違いをしているだけかもしれないけれども。そうして人の健常と障害を分ける唯一の方法が自分で出来ることだったからだ。差別をすることで障害が明確になる。しかし「ぼくは考える木」を読んだ私には、そのような感じはなかった。そこには相手が自分と同じ、それ以上の知性を持った人間であることを認めたからこそ生まれた物語があるからだ。

上手く書くことは難しいが自分の意思をひとつずつつなぎ合わせることで、そこに彼にしか作りえない素晴らしい文学世界が成り立ち得る。その世界がやってくるのを私たちは待っている。ずっと待っている。待っていた。待っていたんだ。

じゃまた。

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