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千代田保健所にまつわるエトセトラ

2019年12月12日 - 描かなければよかったのに日記。

 Nさんに千代田保健所での出来事を書くと良い、と云われたので書くことにする。そうして最近の自分ではまるで判断出来ないほどの強い抑うつ状態にあるのは動く事で身体に強い痺れがはしることが原因であるらしい。

 また、2019年4月から保健相談係に配属になった保健師の行動も原因だということもより明確に為って来た。人は強いストレスに身を晒されるとき、標的を見つけ攻撃をしてしまう。今回はSがストレスのはけ口として私を利用してしまったことが原因だったようだ。

 何故そのようなことが起きたのかというと、Nさんによると説明が足りなかったからだという話に為っている。Nさんは私と良好な関係を作るため、私に対してかなり云いたいことを云うが、しかしNさんはそれだけではなく、私と支援者と相談者の垣根を超えた友情を育みつつある。私からは、これはNさんによる一つの実験のようにも見えるし、私自身にとっても一つの挑戦である。その挑戦をする理由は個人情報というものの本質的な価値を測ることの必要性と云える。

 ふつう個人にとって個人情報は価値があるが、それは仕事をしているからで、つまり個人情報とは社会問題である。社会で仕事をしていく中で内なる発見があるからこそ個人情報は役に立つ。そこには日本人が如何に近代化をし、其の中で個人が社会の中でどの様な役割を果たしてきたか、果たす事が出来るか、という問い掛け自体が個人情報のシステムには宿っている。

 個人の肯定とはそれ自体が自己表現であり、自己表現をすれば、常に否定される可能性がある。人間同士が肯定と否定の闘争をし続けるからこそ、自己や自我が淘汰されていく。マスコミュニケーションからSNSへの移行の中で淘汰されていく過程に変化が生まれた。マスコミュニケーションは個人を否定してきたが、SNSは個人に対する無関心が存在する。世代によって淘汰されていく個人の自尊心にも変化がみられる。

 4月から配属されたS保健師は、まだ若く、そもそも新しく来たばかりだ。しかも部署自体は同じ健康推進課であり、以前からF課長の下で働いていたらしい。しかしS保健師の鶴の一声によって、以前とは相談のシステム自体を変える、ということになった。S保健師が実際にそれぞれの相談者と面談を行い、それぞれ専門家に任せる、ということらしい。

 福祉は現在専門業化されている要素もあり、そこにはヘルパーもいれば、相談員も居る。身体を司る福祉もいれば、精神や心理を司る福祉もあるといった塩梅だ。それぞれ専門があるのだが、ここに問題がある。身体と精神とは密接に結びついており、その結び目こそ、健全なコミュニケーションであるということだ。

 他のシステムに相談者を移行させる場合、あくまで利用者への理解を求めなくてはならない。急いで変える必要はなく、むしろその利用者に合わせて変えていかなければ意味がない。それはそのシステム自体を必要としているのは、福祉の側ではなく、あくまで利用者の方だからだ。

 福祉がシステム化すると淘汰感情が生まれる。これは福祉が一種のファシズム、不自由である事が思想化したものでもあるからであり、そこには優生思想が垣間見える。第2次世界大戦時にはヒトラーによってファシズムが叫ばれ、ホロコーストによる障碍者のみならず、ユダヤ人、同性愛などゲルマン民族的特性を持たない人種の全てを淘汰されていった。ナチスドイツのファシズムにとって、淘汰こそ、ドイツ民族が優れた民族であることを主張する際、とてつもなく分かり易い思想でもあった。ダーウィン的進化論からニーチェの晩年に妹によって書き換えられた「力への意志」と云った当時の最新思想をファシズムは自らの思想を強化する為にファッションの形で装い、ホロコーストによる淘汰を世界に生きる全ての人々にとって、神の死自体が、無意識の一過性のエデュケーションに対する生物の個体差を測る思想として重ね合わせていた。

 Nさんによると、S保健師が課内の方針として、専門家を利用することで、問題が正しく解決していくという事だった。しかし区民の抱える問題は身体的問題にとどまらずに、人権問題の要素も大きい。例えば同性愛に於いて、生物的な一般性セクシャリティを持ち合わせていない事は大きな障害になる。それは生物的な妊娠や出産とは異なる過程に於ける遺伝子レベルでの生存維持が必要だからだ。また身体に障害を持つ人はセックスをし難く、中には現実にセックスが出来ない人もいる。しかし問題はそれ以上に、その過程において大きな差別と自尊心を損なうほどの喪失感を味あわなければ為らないという心理的要因が大きい。現実にどの様に対処していくか、には障害にとっての真のジェンダーとは何か、という問いに対する答えに為りえる。

 其処には現実的な諦観と納得が必要であることは分かるだろうが、それにも個体差があり、それは一般的な同一時間の速度とは異なった自覚の為の理解の深度が必要になるからだ。それは障害を負った人は身体的にも精神的にも常人よりも理解や達成が遅いと云われているからでもあり、恰もすぐに達成できるような頭の良さを持っていたとしても、彼らの納得度が低い場合もあり、それが心理的な発達において凹凸が生じ易い原因となる。ADHDと云った大人の発達障害と呼ばれるそれは、実際の人生の達成に於いて、個々の遅さ/速さが大きなテーマになる。

 人生における正しさは、達成と大人への過程において、エデュケーションの問題を持ち合わせている。しかし身体もしくは精神において遅れを持つ人はそのエデュケーションを正しく行えない。いじめやひきこもりによって、そうした状況が生じ、人権問題に発展し易くなる。日本のサブカルチャーが江戸時代の春画のように明るいエロスや士農工商といった仕事における階級制度によって成り立っていたのもあるだろうし、そこにさらにえた・ひにんといった被差別階級の存在もある。日本はそういう意味で近代化をする前にモダンな状態にあった。

 近代化されていく過程のなか、風俗産業に従事する女性や、特殊技能を持った人々といった、「肉体労働をしなくてはならない人々」は差別されやすい人や自己責任といった言葉によりすり替えられる。そうして障害と真反対とも云える正しさを私たちは少しずつ受容していく。そこには第二次世界大戦でのアメリカ合衆国による敗北があるだろうし、更に西洋近代化の遅れの加速化があったのではないか。正しさという一種の膜が強引に剥がれる事で、日本は第二次世界大戦に突入し、双方お互いが大きな傷を負うことに為った。戦後の日本人は内側で新たな階級制度を作り上げ、内ゲバからイジメやひきこもりをし、ベトナム戦争に参加したアメリカ合衆国は従軍した殆どの兵士がトラウマ(精神的外傷)を負うことになった。

 そうして戦後、何方の国でも漫画カルチャーが発達した。高度な印刷技術が複製技術を発展させていったのだ。80年代から日本はフランスのバンド・デシネの影響を受けた作家や独自のアニメーションを作り上げるようになった。一方アメリカではアメコミという独自のポップ表現が生まれ、その表現を利用したポップアートも生まれた。ポップアートの表現者にはアンディ・ウォーホルやリヒテンシュタインがいる。アンディ・ウォーホルが作り上げたファクトリーや写真によるテストによって、アメリカ合衆国の人々は須くトラウマを受けている、という推測/批評の中で生活するようになった。日本の場合、アニメーションというかわいい表現が、心理を階層化することで、トラウマ自体の階層化を暴露する傾向があった。その階層化によって傷つきやすい心を覆うように為った。

 その階層自体が一種の心理として機能している。トラウマがスティグマ化しており、日本の漫画にはスティグマ化された自己完結的表現があるのだ。福祉が何らかの形で利用者をアシスタントしている以上、利用者もまた何らかのトラウマをスティグマ化することで、関係性が生じるという事も真実になりえるのではないだろうか。日本では福祉はアシスタントの場合が多く、それは一種の技術職でもある。また福祉の持つファシズムは自由を制限するだけではなく、ある種族を淘汰する為にも使用される。ファシズムとは使用する思想家にとって、自己肯定からほど遠く、また自己正当化により優れた思想になる。とすれば当然他者否定であり、他者正当化にもよる。ファシズムとは加害者でありながら被害者意識を持ち易い。

 さて千代田保健所の方に戻るが、彼らは幾度も言葉で「本当に身体が悪いのか」と繰り返す。他の職員も嫌がらせをし続けているので、祭りの状態に為っている。ここにファシズムの典型がある。ナチス・ドイツのファシズムもゲルマン民族の純血を守る為の行動でしかないのだが、それがユダヤ人といった他の人々への淘汰へと過剰に突き進んでしまった。千代田保健所もそういった自らが正しく他者は全て間違っている、というファシズムに於いて自らを優れた人間として捉える事で、他者を迫害する権利がある、というスタンスを取っている。日本における差別に例えれば「えた・ひにんの血がはいる」といった差別主義や「障害者」という言葉自体を否定する、というナンセンスさもあるが、一方ファシズム自体の持つ不自由さ(不自然さ)が、ファシズムに於いても日本独自の空気を読まなければ為らない、という二重構造の不自由さへ還元されていく。それこそ「不透明な匣(Opacity Box)」としての空気であり、無意識の持つ空気がそのまま場の空気としてのファシズムへと為る。

 今回はSは千代田保健所の内部で、無意識に皆が思っていることを言語化し、Sが自らが持っているファシズムを匣(場の空気)として支配してしまった。Sはそれさえも「どうしようもないことだ」という場の空気の無意識の言語化することで、更に場の空気のファシズムへと還元してしまった。息をするように騙る言葉としての無意識ではあろうが、不透明な匣のなかの時間は凍結しながらも、やはり其れでもこの作業の時間は流れていく。そこでは空気として「不透明だからこそ何もない」時間が凍結し、流れていく。その虚無からの脱却には、無意識のコンプレックスではなく、ラカンのようなトラウマと想像界として、解決していかなければならないのではないだろうか。Sも人間であり、これからいろんなことを経験していく事だろう。今回の件はSが若者だからこそ、その行動を一過性の病として匣や本人が受容しようとしている。しかし彼の身体もいつまでも頑健ではなく、死を思う事もあるかも知れない(惧れとして、自意識の怪物つまりエゴイストである事に苦悩しない前近代もしくは超近代の人格を持っているのかも知れない)。それでも、お金や地位や躰ではどうしようもないものを彼は持ち得る事に為る。それが時の流れであり、もし彼が時の流れを理解したとしても、彼の元々の本質は、匣の外ではSの被害に遭った人が未だに苦しんでいるという真実へは永遠に辿り着かないかも知れない。しかし苦しみは決してなくなる事は無い。周囲はそれを正当化と呼ぶかもしれないが、そうではなくもっと凡庸な無関心を装うことでしかなく、それこそ日本人の持つ空気を読むファシズムなのではないだろうか。所詮ただの匣であり作業でしかなく、その不透明化に特化した濁った水槽でしかなかったのではないか。

 悪を知らなければ清濁を併せ吞むことは出来ない。

 邪悪であることを知らないからこそ真の邪悪では無いか、ということが千代田保健所のSと現実に会う事でSが求めている答えが何を意味するのか、分かるのではないだろうか。

 またSに関してTwitterで凍結をされたので、異議申し立てを行っている。もし現実に彼が対応していれば、このような事をSがする必要も無かったのではないか、と思う。

 この件はSが公務員でありながら、上司の指示に従わず、区民を自殺にまで追いやったことが問題に為っている。その際彼の出身医学部が最低偏差値であることは全く関係がない事実だ。しかし実際に島根大学医学部看護学科出身であることを指摘されたときの彼の攻撃的な態度を見る限り、Sにとって島根大学医学部看護学科出身であることは重要なことらしい。

 また、IもSの上司ながら、Sを地区担当としてそれを基に判断し、此方の言葉に全く耳をかさない態度を示している。それはSに対する強い恐怖心の現れなのかも知れない。その上司にあたるFも同じように彼に対する無意識領域に対して反抗できないのかも知れない。

 この話は途方もない他者についての騙りであり、どのくらい続くか分からない。じゃ、また。

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